日米のヒーロー像の違いと国民性が反映される作風について

内田樹さんの街場のアメリカ論にあった、巨大ロボットに関する説話が非常に印象に残っているので下記に貼っておきます。ま、すぐにそういう国民性への議論に結びつけてしまうのはちょっと早計とも思うんですけど。お国柄というやつがアニメ作品、ヒーロー作品の物語にも色濃く出る、ということでしょうか。

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"戦後の日本型アニメ・ヒーローはアメコミの場合と同じく、ほとんど同じ説話原型を繰り返しています。恥ずかしいくらいに同じ話。どんな話だかわかりますか?
それは「無垢な子供しか操縦できない巨大ロボット」という物語です。この物語の原型は横山光輝の『鉄人28号』と手塚治虫の『魔神ガロン』から始まります。
旧日本軍の秘密兵器、鋼鉄の怪物である鉄人28号を操縦できるのは半ズボンをはいた金田正太郎少年だけです。巨大で凶暴な「ガロン」は心臓の中に「ピック」と名乗る少年を収蔵しています。ガロンもまたピックの無垢な心に支配されるときにのみ「正しく」機能します。この二作の作り出した説話原型は日本人の琴線に触れたのでしょう、その後に続く無数の「巨大ロボットもの」「モビル・スーツもの」で繰り返し採用されました。『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』から『機動警察パトレイバー』『新世紀エヴァンゲリオン』に至る無数の巨大ロボット漫画の伝統を私たちは持っていますけれど、これらの物語はすべてある物語構造を共有しています。
それは巨大でメカニカルな「モンスター」は無垢な「心」が入っているときだけ正しく機能し、「心」を失うと暴走してしまう、というものです。
これって「何の話」でしょう?

ここには戦後日本人が幻想的な仕方で処理しなければならなかった二つの「ねじれ」が入り混じっているように思われます。

二つの「ねじれ」とは、ひとつは日本の「呪い」であるところの自衛隊軍国主義的なもの)と憲法九条(戦後民主主義的なもの)の「ねじれ」。もうひとつはアメリカと日本の「ねじれ」です。それを物語的に解決するのが「巨大ロボット」説話群なのです。"

内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫2010)
089|第3章 哀しみのスーパースター―アメリカン・コミック

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以下は私の暴走的思弁ですが、私の見るところ、アメコミのスーパーヒーロー物語は、ある設定を共有しています。それは「理解されない」ということです。
(中略)
自分たちはこうやって悪を倒して、世界に平和をもたらしたのに誰も感謝してくれない、というのがアメリカのサイレント・マジョリティの切なる声なんだろうと思います。その満たされない不満がアメリカのアメコミ映画に恥ずかしいくらいあらわに噴出しています。(85p-87p「第3章 哀しみのスーパースター−アメリカン・コミック」)

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