10月から北米へ。

最近少しずつお客様に自分の海外転勤の話をし始めてる。

そう、今年の10月から北米に転勤することになった。

いわゆる、「青天の霹靂」、というやつなのだろうけど、実際に言われてしまったのだから仕方が無い。
転勤の内示というのはいつの時代も突然やってくる。

私の今の上司は2008年に私を中途採用した人であり、私を2013年に昇進に推薦してくれた人でもあります。
そして、遂に海外に行かせる判断までしたわけだ。

7月某日、上司から突然電話がありました。私は新橋に外出しており、顧客訪問を終えてお昼ごはんを食べているところでした。

上司「kiki、お前、今1人か?」
私 「ええ、そうですよーどうされました?」
上司「えー、発表があります。」
私 「え、なんですか?改まって」
上司「kikiには、10月からアメリカに行ってもらいます!」
私 「…… えー!!!?それ、本気で言ってるんですか?」
上司「なんや、嬉しないんか?」
私 「いや、嬉しいとか嬉しくないとかそういう話ではなくて…」
上司「もう役員会手前で外堀は全部埋まってるからそのつもりで。家族には話しとけよ」
私 「はあ…」

このやり取りだけ見ると電波少年水曜どうでしょうのノリである。

今考えると、6月のサンディエゴ出張のすぐ後のサンノゼ出張の時に無理矢理私を北米に行かせた時にどうも不自然な気はしていました。
いくらなんでも短期間で行かせすぎだろうと。

そして、サンディエゴ出張 http://d.hatena.ne.jp/kikidiary/touch/20140608/1402218883 の際の下記のやりとりは完全に伏線になっていました。

                          • 以下抜粋---------

そういえば、アメリカの販社の社長が「kiki、アメリカに赴任する?」と軽く投げかけて来たのは印象的でした。
是非、と言ったけど自分の上司もいたりして中々にデリケートな瞬間だったようにも思います。
TOEIC何点?とか聞かれたりして。結構マジなのかなあ。

                      • 以上----------

このやり取りは恐らくは意思確認だったのだな、と今になって思います。
もし、あの場(居酒屋)で決めてたのであれば、それもびっくりですが…。
上司は決断のタイミングを図っていたのかどうか…。思い至らなかった。
てっきり先輩が赴任するだけかと思っていましたが、その先輩も語学研修で北京に行くことがわかり、私たちの3人のチームの主力は2人もほぼ同時に抜けることが判明しました。
普通、こんな大胆な施策は思い浮かばないものですが、思い切ったものです。
戦力ダウン分は別のチームから仕事ごと人を引っ張ってきて、さらに中途採用も進めるという大胆な施策。
まー、人を信じて「育てる」ということはしない会社だなあ、と相変わらず感じます。
人を信じて、「伸びた」人には更に仕事がくる、という。仕事の報酬は仕事、というのはよく言ったものです。

 私が勤める会社の製品の主戦場は間違いなくアジアでありそれは中国、韓国、台湾、日本、東南アジア。
その他のエリアにも販社はあるし、赴任者はいるものの、上記の挙げた順番で赴任する先としての確率は高く、中国に送り込まれる営業担当者が多いのが実情だ。
そのため、若手の間はいつ下るかわからない海外(むしろ、中国)転勤の辞令に2月や3月、7月や8月は戦々恐々とすることになる。
海外に行きたくない人は面談のたびに聞かれる、「海外転勤OK or NG」の質問にNOを答え続けることになる。
残念ながらそういう人は中々昇格しない。

 北米、オランダ、シンガポール、台湾、辺りは赴任地としては人気の土地。
台湾以外は自社の製品のマーケットがそれほど大きくない。
また、それなりの語学力が求められもするため、ベテラン赴任者、もしくはペラペラの帰国子女人材が行くような土地と思われている。
事実、私もそう思っていた。
これまでそのエリアに赴任した人たちのスキルを見ていればそれはわかる。
仕事の能力は大前提だが、語学力もまた求められるものだと理解していた。
1度海外に出ると中々日本に戻って来られないという事例も沢山見てきた。
最長で15年くらい帰ってこなかった人もいる。(それは今の部長だったりする)

 翻って、私の力はどうなのか?ということを考えておきたい。
少なくとも2008年になるまで、私は英語をろくに使ったことが無かったし、英語を使った仕事がどういうものなのかすら考えたことも無く、想像もつかなかった。
単純に、伸びている産業が輸出系企業であり、電機や自動車産業で働きたい、海外と関わる可能性のある仕事がしたい、と思って今の会社に転職した。
そんな大事なことに就職するまで気が付かなかったのだから呑気なものだ。

 06年に入社した一社目は95%の売上を国内市場が占める会社であり、輸出もあまりしていなかったし、社内の雰囲気は完全に淀んでいた。
当時のことを思い出すと、社員間の空気は悪くはなかったものの、会社の将来に希望を持てるような感じではなかった。
「どうして、この会社に入ったの?」と何度も先輩方に聞かれて説明する羽目になったのは単純に寂しくもあった。
自分の父親も働いていただけに。
値上げが断続的に続き、取引先の整理なども進んでいたので仕事量が単純に大幅に減っていたりもした。
定時に帰ってたし残業なんて数える程しかしなかった。
私は前の会社で培った知識や能力は今でも活きていると思うし、上司や先輩のことを今でも尊敬している。
だが、自分がここに何年もいて、自分の求めるものになれるとは遂に辞める時まで思えなかった。
転職のために慌てて受けたTOEICは500点だったし、それが大したスコアではないことはわかっていた。
リスニングでも聴き取れたとはさっぱり思えなかった。
貿易実務検定も懸命に受けていたものの、実務が伴わないと知識が全く定着しないのは当然だとも思っていた。

 08年に転職して、周りからは英語や韓国語、中国語が聞こえてくるオフィスに座った瞬間に「しまったなあ…」と思った。
全然勉強してなかったし、そんな余裕も無かった。
転職して有給使って旅行もせずに愛知県なら引越して関東にやって来ていた。
そこからは慌てて英会話ランチに出掛けたり、TOEICを受けたり、会社主催の英会話レッスンがあれば受けられるものは欠かさず受けた。
特に神田外語大の講師が会社に来てやるレッスンはしんどかったが、有意義だったと思う。
ビジネスメールや話し方に作法があったり丁寧表現があったりすることをしっかり学べたのはあのレッスンのおかげだった。
先輩方のeメールを真似して海外とのやり取りも自然にやってみせた。
内心では電話がかかってくるのも怖くて内線電話は忙しいフリをして全然取らなかった。
(途中から内線電話は廃止され携帯電話に直接かかってくるようになったため、取り次ぎせずに済むようになった)

 海外出張のチャンスは少しずつやってきて、たまにフィリピンやシンガポールやマレーシア、台湾、中国、ヨーロッパなどにも1度だけ行った。
ここ最近ではカナダだったり、アメリカにも数度行く機会に恵まれた。
海外で本格的なnegotiationをするわけではなく、あくまでもto say helloな出張が多かったようにも思う。
いわゆるご挨拶…的な。やはり顔も場所も知らずに仕事はしづらい、という観点で出張の機会が多かった。

 メインは日本人のお客様の相手であり、お世辞にもフルタイムで英語を使っているとは言い難かった。
TOEIC対策は度々訪れる不安な気持ち、もう少し具体的に言うといつでもどこでも働ける人になりたい気持ちから徐々に進み、2014年3月には775点まで点数は伸びた。
少しだけ誇らしかったけど、800点くらいは取りたいなあとも思っていた。
私が入社した当時のペラペラ人材たちは海外に赴任したか、辞めたか、のいずれかでいつの間にか私の周りにはペラペラではないけど、そこそこ話せる人は少なくなっていた。(それでも私より話せて聞けて、という人はたくさんいるけども)

 先日もひょんなことから後輩のシンガポールとの電話会議に呼ばれてシンガポールのセールスヘッドとインドのセールスとの三極会議をやってあれこれと話したがアジア人にとっての英語であればなんとか相手が出来るようになってきた。
あと、ここ最近海外赴任を見越して少しでも話せる時間を見繕うためにGABAにも通い始めた。
これまた結構骨が折れるのだが、少しでもやっていかなきゃしょうがない。

 こうして書いてるとこの6年は仕事に関しては精一杯背伸びしてやってきたのだった。
背伸びはそれなりにしんどいけど、段々成長にも繋がるのは間違いない。
変わり続けることこそが、自分を、そして自分の将来の家族を守る最良の策だと思ってる。
日本にいられるのもあと2ヶ月を切ってしまった。
全く忙しない日々だが、やっていくしかない。やりきるしかないのだなあ。