娘のこと。

待望の娘が産まれました。

10ヶ月は長かったです。
私は男ですから待ってるだけでしたから、お腹の中で赤ちゃんがだんだん育っていく妻にとってはそれ以上に長い長い時間だったことでしょう。

昨年8月にカンクンに新婚旅行に行ってた頃に妊娠が発覚し、それからは少しずつ、大きくなる奥さんのお腹を見ながらだんだん準備を進めてきました。
とは言っても、大半の必要な物品は奥さんがターゲットとかバイバイベイビーとかAmazonで発注してくれたのですが。

それにしても色んなものを一気に買いました。もらったものも多いですが。

IKEAのベビーベッド、ベビーベッドのベッドマット、そのカバー、オムツ替え台、オムツ替え台用マット、大量のオムツ、大量のお尻拭き、赤ちゃん用洗剤、赤ちゃん用食器用洗剤、手の消毒薬、哺乳瓶、哺乳瓶暖め機、哺乳瓶乾かす容器、哺乳瓶洗う道具、搾乳機、おくるみ、ガーゼ地のタオル、ハンカチ、ベビーバス(風呂)、赤ちゃん用監視カメラとディスプレイのセット、赤ちゃんにお乳あげる時のための枕、赤ちゃん服、下着、などなど…

赤ちゃん服やバシネットはサンノゼに住むお友達夫婦から大量に譲っていただきました。
あと、ガーゼ地のタオルは大量に妻のお母さんに持ってきてもらいました。
友達や職場の仲間からは出産祝いを事前事後にいただきました。
本当にありがとうございました。

妻には妊娠期間を通じて妊婦友達が増えました。情報交換は凄いなあ、と感心しきりでした。
妊婦友達同士でお祝いするベビーシャワーというパーティの存在もアメリカに来て初めて知りました。
ダイパーケーキとかなかなか素敵な文化です。

いかんせん、本当にはじめてのことばかりな上に異国の地なので、何かにつけて、戸惑うことも多かったです。

妊娠が発覚してから産婦人科の予約を入れようとしましたが、かなり待たされたのは印象的でした。
その間、とてもヤキモキしました。
このシリコンバレー界隈では日本人赴任者の間でよく知られた日本人の産婦人科の先生で井上先生という方がパロアルトメディカルファウンデーションというところにいらっしゃって、月に一度通い始めました。
私もなるべく同席するようにしました。
数回は妻だけで行ってもらいましたが…。

初めて、エコーで赤ちゃんの動いてる様を見たときは本当に感動しました。
いや、その後も鼓動を聞いたりするたび、感動しっぱなしではありましたが、自分の子どもがすくすくと妻のお腹の中で育っていく様を見守るのはとても幸せなことで、私は妻のお腹をさすりながらいつもニヤニヤしていました。
妻の悪阻はそれほど、ひどくなかったのは妻にとっては幸いでした。
色々と妻の健康面や赤ちゃんのことで心配事もありましたが、それも全て杞憂に終わり、安堵しました。

両親学級にも色々行きました。分娩、出産をするエルカミーノホスピタルで主催の両親学級には何度か行きましたし、病院の見学にも行きました。
分娩中、どうやって痛みを逃がすのか?みたいな講座でした。
あと、コンサルタントをやってらっしゃる日本人の方にお家まで来ていただいてオムツ替えやら抱き方、お世話の仕方をクラスで教えてもらったりもしました。チャイルドシート講座をスタンフォード病院まで受けにも行きました。
今思い返すと行っておいてよかったなあ、とつくづく思います。
積極的に調べて私を連れて行ってくれた妻に感謝したいです。


秋にはグランドキャニオンに行きましたが、その長い長い移動時間の車中でもなかなか名前は決まりませんでした。

37wksになっても娘の名前はなかなか決まってませんでした。
読み方は決まっていましたが、漢字が決まっていませんでした。

思い立って、Sunnyvaleのファーマーズマーケットに行った帰りにスターバックスに寄り、外の席でノートとペンを握ってあれこれと妻と2人で思案しました。

漢字はいくつか候補は絞られていましたが、最終的にはきちんと決まりました。
米国生まれになるため、米国国籍のために、ミドルネームも名付けました。

名前が決まって安堵してましたが、翌週38wks目の検診で妻の高血圧が心配になってきて、先週からずっと続いていたこともあり、先生は病院でもう一度経過をみて、もし血圧が下がらないようなら、即入院/出産しましょう、と言われました。
予定日まではまだ2週間以上もありましたが、このままでは妊娠高血圧によって母体も危ない、ということから即断することになったとのこと。
確かに妻の血圧は突然跳ね上がっていました。

慌てて、帰宅し入院セットを持ち、病院に行き、血圧を測定してもらいました。
夕方の18時くらいに病院で血圧を測定し始めてもらいましたが、結果的には21時頃に血圧も安定しないので入院してください、ということになりました。

そこから近くにある日本食スーパーで晩御飯を買いに行ってる間に妻は陣痛促進剤やら点滴を打たれて、晩御飯を食べた後、病室で眠ることになりました。病室は比較的広く、私もソファベッドで寝ることができました。

翌朝7時、医師が来て破水させました。人工的に(物理的に)破水させることが出来ることは知りませんでしたが…。
妻は陣痛促進剤により、陣痛は始まっており、痛みを訴えていました。

その後、定期的に看護婦が来ては子宮口の開き方をチェックしていきましたが、夕方17時になり開き方が10cmに迫ったため、18時から分娩を開始することになりました。
アメリカでは無痛分娩が一般的だったので、途中でエピデュラルを打ってもらい、無痛になって以降は分娩の痛みはかなり散っていたようです。

看護婦さんが声をかけながらpush! It's a girl!などと言いながら息を一緒に吸い込んではいきむ、というお産の現場に立ち会いました。
看護婦さんは1人しか来ておらず、私も完全に助産師の補助的な役割ですが足を押さえたりして、手伝うことになりました。

妻はエピデュラルを打っていたためか、分娩の仕方がイマイチ掴めず、なかなか進まない。
途中、もしかして進みづらいかも、というところから医師に来てもらって、もし、時間がかかり過ぎると赤ちゃんの体力も限界になるから、帝王切開かも、という場面もありましたが、医師の指示と声かけが始まってからよりうまく進むようになり、なんとかそれは避けられました。

髪の毛も含めて頭が見えてきてからはより一層、どんどん進んでいき、妻の必死な頑張りの甲斐もあって、夜21時40分、ようやく赤ちゃんは産まれてきてくれました。臍の緒が付いた状態で妻の胸の上に置かれて、赤ちゃんは元気良く泣き始めました。

彼女が産まれた瞬間、思えば、自分もこうして母親から産まれてきたのか、と思うと、なんとも不思議な気持ちになりました。
よく産まれてきてくれたね、という我が子に対する感慨深さと、妻に対する感謝の気持ちに感無量となりました。

私は赤ちゃんの臍の緒を切らせてもらって、赤ちゃんはその後、看護師さんによって様々なメディカルチェックを受けていました。
早速血液検査も受けて注射も打たれていたりして、泣いているのを見ると、胸がキューっとなりました。
赤ちゃんの泣き声はそれなりに声も大きいのですが、我が子の泣き声には何故か嫌な気持ちはせず、それどころか、なんとかしてあげなきゃ!という気持ちになることの方が多い。なんでだろう、母性本能というものではないでしょうが…。

水曜の夜に生まれたので、アメリカでは金曜の朝には退院する羽目になります。
金曜の朝に退院し、土曜には妻の母がサンフランシスコ空港に降り立ち私が迎えにいき、なんとかかんとか、土日で安定したら水曜か木曜くらいからは仕事が出来るかと思っていました。

が、月曜日に小児科に行ったところ、検査の結果、体重が予想以上に減っており黄疸がひどく、ビリルビンの値が高く、入院する必要がある、と言われて、NICUに入院する羽目になりました。
合わせて妻の高血圧も引き続き収まる気配が無く、経過観察の必要あり、となり、妻も入院。

私は月曜日からいきなり妻と娘の2人の患者を抱えることになりました。
月曜日も火曜日も病室で泊まり、なんとか水曜に二人とも回復傾向が見られたことから退院することが出来ました。
この間にNICUと妻の4階の病室やら緊急外来を何度も往復したおかげで、エルカミーノホスピタルの構造にかなり詳しくなってしまったほどです。
何回も日本食スーパーのお弁当やら病院内のカフェテリアのCoffeeを飲むことになりました。
荷物を取りに帰るために家との往復もこなしました。
妻と娘の方が余程大変だったことでしょう。

結局、最初の入院から1週間の間、まともに仕事は出来ませんでしたが、上司や先輩たちがなんとかフォローしてくれたおかげで、木曜からようやく現場復帰しました。ご迷惑をおかけしました。
産後の育児休暇はなかなか取れそうにありません。

家族が実際に更に1人、増えて思うのは、仕事も大事なのですが、それとは比べられない大事なものがあるんだな、と強く感じている、ということです。

自分の父や父方の祖父のことを思い返してもやはり、家族のことはどこまでも見捨てなかったわけで、どうして、そういう行動を取ったのか?というのは自分も父になったことで、初めて実感しています。
ある意味、血を分けた親としては当たり前のことをしていた、ということなのでしょう。

赤ちゃんの泣き声に起こされて妻は毎日しんどそうですが、妻にとっては既に10ヶ月もお腹にいた我が子が辛そうにしていたらどうにかしてあげなきゃ、と思う気持ちの方が強い、と言います。私も同じ気持ちです。(体力的限界を迎える夜も多いですが…)

この子がこれからの人生を生きていく上では、本当に辛いことも楽しいことも経験していくと思うのです。私は父として出来る限りの応援とサポートをしていきたい。

きっと高い壁にぶつかることもあるでしょう、誰かに裏切られたりすることもあるかもしれません。
でも、世界中が敵になったとしても、私だけは我が子の味方でいてあげたい、と思っています。

それはちょうど、自分の父や祖父が私にしてくれたのと同じように。

そして、きっとたくさんの友達、仲間に囲まれて、誰かのために力になってあげられるような、正しく強く優しい人に育ってほしいと願っています。
願うだけじゃなくて、親としてはその背中を見せていかなくてはいけないのでしょう。

あなたの人生が輝きに満ちた素晴らしいものになるように願いを込めて、そして、産まれた時の1週間がどんなだったかを記録に残すために今日の日記を書きました。