昔の日記より大学時代の話

 mixiにまだ残されていた昔の日記をサルベージして残しておきたいと思いこちらにコピペしておきます。

大学時代の話で日記を書いたのがそもそももう13年も前の話ですけども。

一部内容を大幅に加筆修正しています。殆ど、特定の人に向けて書いた記事でしたが、一般の人が見ることを前提に固有名詞を伏せ字にしたり一般名称に変えています。

 

2008/06/09

 あることを契機に大学の文化会本部時代のことをちらほら思い出した。演劇部にいた友人と飲んだときもそういう話をしてた。 
 

それは2001年のこと。私は大学に入ると、文化系の部活動である軽音楽部に入部しました。大学は私立大学で学生人口が非常に大きいいわゆるマンモス大学と言われるようなサイズの大学でした。大学には文化系の大学公認の部活は確か当時22-3の部があって、管弦楽団やら軽音楽部やら書道やら詩吟やら演劇部やら落語研究会やらいろんな部活動がありました。こうした文化系の部を取りまとめて大学側に活動を理解してもらい、予算や練習場所の確保をするために文化会本部という組織がありました。

  私は、すぐに文化会軽音楽部で友達ができ、バンド活動にのめり込んでいきましたが、後にこの文化会本部という組織に関わっていくようになり、少し変わった経験をしていくことになりました。軽音楽部に入った時点ではバンドをすることばかり考えていて、文化会というものに深く関わることになるとは全く思いもよりませんでした。

 

■きっかけ

 私が文化会本部の仕事に携わることになった直接のきっかけは軽音楽部の渉内部長になったのがきっかけでした。私が通った大学の軽音楽部は大所帯で、100-200名もの部員を抱える大組織で、下手すると単独の部活では大学内で1番大きな組織でした。(4-5人単位のバンド活動をする若者たちの部活が巨大組織ってのもなんだか、笑えますが。結構入部した後、辞めていく学生も多かったです。)

 軽音楽部では毎年2回の定期演奏会やその他の学内イベントでのライブ活動や合宿が主な活動となっていました。毎月、きちんと部の総会があり、部費も毎月一定額徴収されていました。(普通の月は2000円、6月と12月だけ6000円。なので、合計26000円+合宿代50000円。今思うと結構お金かかる・・・。)こうした行事や決まり事をこなすために、会計やら宣伝やら渉外、渉内と言った仕事が振り分けられていました。

 特にスタジオやライブでの機材設営やライブの音響を担当する渉外は仕事としても軽音楽部ならではの学びというかスキル習得も多い仕事で私も入部してしばらくしてから後は渉外希望でした。(実際、高校時代から宅録もしてたし、機材の扱いには一定の自信もありました)

 一方、渉内の仕事はライブの照明操作、照明レンタルなどをやる仕事でした。あとは講堂の予約や鍵借り、鍵開け、鍵閉めとかもあったかな。

 部長、副部長、渉外部長、渉内部長が部内では幹部であり、3年生になったら部を運営し、同級生たちと一緒に協議したり相談しながら、下級生の部員を動かし、部活動の行事を成功させていきました。

 3年生は夏の合宿になると、後任の幹部を夏の合宿で選びます。そして、選ばれた幹部で次の年の部を運営していくための組織を作るためにあれこれと頭を悩ますことになりました。

 

■渉内部長の仕事

 毎年の慣例で、軽音楽部の渉内部長になった人間は文化会本部に送り込まれ、「文化会本部の渉外として」各部及び各パートとの利害関係の調節役をおおせつかることになるのです。

 これは私が思っていた軽音楽部の渉内の仕事とは全く違う仕事でした。なんと、照明なんてまるで関係無くて、世を忍ぶ仮の姿でした。(つまり、軽音楽部の他の部員からは渉内部長の仕事は「なんだか、大変そうな仕事」にしか見えていませんでした)

  私を渉内部長に指名した先代の渉内部長であるS原さんと私は任命された当初それほど仲良かったわけでもありませんでした。

 正直、先々代のS本さんの学園祭での壮絶な仕事っぷり、大変さを見ていたので、こんなことを言うのもなんですが、出来れば避けたいポジションでした。私は大学軽音ではボーカリストだったのですが、当時2年先輩のボーカリストだったS本さんの大ファンで、いつもライブでは歌に聞き惚れていました。S本さんが学園祭であまりに大変で、てんてこまいになっているのを見て、これはきっととても大変な仕事なのだろうと思ったものでした。(自分でやってみたら本当に実際に大変だった)

 確か記憶では何かのきっかけで暇そうにしていた私がS原さんのお仕事を少し手伝ったことがあって、その時の印象がS原さんには残っていたのかもしれません。(今思えばあれも、どこかの怪しい団体の荷物を無邪気に運ばされていたような気もする。詳しくは後述)

 私は当時、大学2年生の軽音部の夏の合宿最終日にそのポジションに指名されて盛り上がってしまいました。私は元来、目立ちたがりなんですね。そんでもって、夏休み明け、文化会本部に行き次期本部長にお会いするわけですね。 
 それが別の部に所属していたH切さんという豪腕本部長との出会いだったのです。

この人と切れ者副本部長であるS原さんのせいで(おかげで)私の課外活動に対する価値観は音を立ててガラガラと変わってしまいました。

 軽音のボックス(部室)や生協のカフェに毎日入り浸っていたのが、次第に本部に作られた「マイデスク」に常駐するようになります。(当時はわたしのようなペーペーにも机が割り当てられていました。) 当時、本部は綺麗好きのH切さんにガッツリ綺麗に掃除されていて、とても居心地の良い空間になっていたんですね。(H切さんが徹底的に掃除していたのは後になって知りましたが、、、)

 H切さんは非常に強烈なキャラクターと強面(こわもて)でしかも、腕っぷしにも覚えありという、所属している部から想像できない独特のキャラクターで、尚且つ、本部の仕事を仕事然として楽しんでいる人でありました。様々な「大学の課外活動団体に秘められた謎」であるとか過去であるとか置かれている状況を事細かに知っていて、いつも話は知らない世界を垣間見るようで、とても面白かったのです。

 S原さんはとても仕事の実務をかっちりと尚且つ、冷静に淡々とこなす人で、割とドライなところがありました。とにかく、H切さんのカリスマ性とS原さんの行動力には目を見張るものがありました。あの2人の真似はしたくてもできないし、やろうとも思えませんでした。2人が下地というか、レールを作ってくれたからこそ私たちは自分たちの代に色んなものを形に残せたんだと思います。 

  私は当時の文化会本部室がとても好きでした。色んな部から様々な部内の力関係や政治から、文化会運営に供出された(笑)人たちが半分仕方無しに文化会活動に参加し、本部の仕事を請け負い、本来の部活の仕事もしながら本部の仕事もすることになるわけで、モチベーションは人それぞれでしたし、他の部の人たちとまさか絡むことになるとは、という気持ちですらありました。ここでしか出会えなかった出会いが本当にたくさんありました。良くも悪くも…。

 よく思い出すと、当時は箱番(つまり、誰かが本部室に常駐しなくてはならない)というルールもあったかと思います。大学内で通話可能な内線電話もあったりして、大学の学生課との連絡にも使われていました。

 H切さんがいて、S原さんがいて、T谷ちゃんがいて、ゆきちゃんがいて、シウメイさんがいて、ちゅんがうろうろしてて、マッキーやしばっちやくじらがしょっちゅう遊びにきて(くじらは仕事やね)、毎晩遅くまでぐだぐだ遊んで、鍋やったりして。同じ軽音楽部から渉内ヘッド(補佐的な役割)として来てくれたちゅんには公私共に、本当に助けてもらいました。渉内の引継ぎも課外活動棟で鍋でした。お店じゃなくて。

とにかく、本当にあの頃は楽しかったのです。H切さんのひょうきんな性格と軽妙なトーク、S原さんやシウメイさんとの絡み、いつも飽きずにいつものメンバーでいつもの場所でワイワイと盛り上がっていました。

 でも楽しい、というには危険な部分もありました。まあ、それがあったからこその楽しさだったのかもしれないのですが。

 

◻️文化会本部での初仕事

 2年生の秋から文化会本部の仕事を始めました。

最初は色んな人と知り合い、生意気にも学生のくせに名刺を交換したりして、文化会の中で他の部の代表として出てきている人達と知り合いになっていきました。(今でいう意識高い系?)文化会本部としての活動そのものに関わるようになっていくのは3年生になってからが本格的なところで、それより前は引継ぎというか顔繋ぎの打合せやら顔合わせが多かったように思います。

 

◻️オリテ

 そして、3年生になる手前から始まったのが、新入生勧誘オリエンテーション、通称オリテ、でした。

これは何か?

関西のマンモス私立大学に入学してくる新入生が数千人いて、この新入生を部活動やサークル活動に勧誘する団体が2-300もあってめちゃくちゃ多い。

この大規模な一斉勧誘活動を混乱無く、トラブル無く秩序のある形で終わらせるためにサークルや部が協力して、このオリエンテーション期間の活動をきちんと規律のあるものにする組織でした。

 サークルや文化会、体育会、応援団(リーダー部と吹奏楽部からなる)、から代表が結集して、この期間内に起こる行事をきちんと取り仕切り、怪我人やトラブル無く、勧誘を成功させる、というのがお題目になります。(このメンバーが秋には学園祭実行委員会のサークル祭実行委員にもなります。詳しくは後述します)

 実際、当時は各部活動やサークルが自分達のことを学生にいち早く知ってもらうためには入学式に来る学生を捕まえて話を聞いてもらったり、部室に見学に来てもらう必要があるわけです。また、部の責任者の連絡先や部の存在を新入生に知ってもらうために立て看板を期間限定で学内に置くのですが、この立て看板の場所取りする日を決めたり、立て看板のサイズを決めたり、立て看板を置く申請を受け付けたり、立て看板を置く日にはなんと競争で場所取りをするなど、様々な活動がありました。勿論、立て看板の設置後は、今度は風で倒れたりしないように看板をきちんと固定したりするのも仕事のうちでした。(倒れた立て看板の処理なども)

  また、軽音楽部は大学正門から入ってすぐの最高の位置(ほぼすべての入学式や手続きに来た新入生が必ず2回は通る)に陣取り、野外ライブを敢行させてもらっていました。この野外ライブはオリテの時と学園祭の時にしか許可されず、近隣住民の目と耳も気にしつつ、なんとかかんとか敢行されてきました。これはまさに軽音楽部から渉内部長が文化会本部に出てオリテで仕事をこなしているからこそ、つつがなく、演奏や電源の屋外使用の届出が出来てうまく他の団体とも調整が効く出来るまさに「最強の勧誘活動」でした。応援団リーダー部や吹奏楽部も同じく、正門前で華々しく勧誘のための演舞やら演奏を披露していました。学内を走り回ってなんとかかんとか、業務を完了しました。

 

◻️文化フェスティバル

 この新入生勧誘オリエンテーションがある程度落ち着く5月頃、今度は文化フェスティバルという文化会単独でのイベント期間が始まります。これは文化会に所属している団体が期間中に、様々な催しを連続的に行う期間で、ざっくり2週間くらいあったようなら気がします。大学内の様々な敷地内で演奏やら演舞やらが行われることもあり、新入生勧誘イベントの延長みたいにもなっていました。この期間中に行事の問題が起こらないように取り仕切ったり、発表に必要な演舞台を借りて来て、ステージを作って開会式やったり、閉会式やったり、といったコーディネートも文化会本部の仕事でした。開会式には大学側の教授やら学生課の人にも来てもらったりしていました。しかし、後述しますが、この文化フェスティバルも単なる勧誘イベントというわけでもなく、それなりの歴史があり、単純なイベントではなかったのです。私も1年生や2年生の頃はそんなことは知りもしませんでしたが。

 

■学園祭

 慌ただしく春先の行事をこなすと今度はわりとあっという間に学園祭の準備が始まります。

 これがまた驚くほど「まどろっこしい」システムを当時は取っていて、各学部に毎年結成される学部祭実行委員会が学生の賛同を得て発足します。(これは準備委員会がきちんと毎年、サークルみたいな形でメンバーを勧誘して事実上の部活ないしはサークルとして存在し、各学部で授業の合間に学生にビラを配り、学園祭の実行に向けて結成のための集会を実施し、学部生からの一定数以上の賛同を得て学部に対して学園祭期間中の講義の休みを申請したりもします。)

 また、発足した各学部の祭実行委員会オリテでも活躍したメンツから構成されるサークル祭実行委員会とが集結して、統一学園祭実行委員会が立ち上がり、この統一学園祭実行委員会が、中心になって学園祭を運営していきます。

 この統一学園祭実行委員会が出来て、きちんと大学側に講義のお休みであるとか、施設の使用許諾を得るまでは毎年、学園祭が開催されるかどうかは不透明、という状態になります。学園祭をやると一言に言ってもこれは学生の自発的な活動という位置づけなんですね。大学から言い出すことではない、という話なわけです。

 学園祭期間中は講義が休みになるため、学園祭にまるで興味が無い学生からすると、ややもすると迷惑この上ない話でもありましたが…(数日間、旅行に行けると喜んでいた人もいた気がします)

 この統一学園祭実行委員会が学園祭期間中のイベントや模擬店、その他を全て取り仕切ることになります。

 模擬店局は毎年激務で、関西でも随一の規模を誇る模擬店出店者たちに説明会開いたり、検便やったり、と大変な対応の様子を横目で見ていて辛かったです。

 また、学部祭実行委員会が中心になってアーティストを呼んだりもしていました。ケツメイシだったり、島谷ひとみだったり、オレンジレンジだったり、Misiaだったりを呼んでましたね。こちらの仕事はチケット販売があったり、プロモーター選定やらアーティスト選定やら宣伝やらチケット捌きや学内チケット販売があってわりと華々しい仕事とも言えました。なんせアーティストとも会えますしね。人気の局でした。ですが、島谷ひとみの時とかはチケットが売れなくて赤字になったみたいな話も聞きました…。

 んで、軽音楽部の出身者、つまり私のような人間が毎年、吹奏楽部やリーダー部の代表者と一緒に担当していたのが舞台局のお仕事でした。

 中央ステージの設営、運営、イベント管理、出展団体調整、電源の申請、音響関係の業者手配、ステージ後ろの垂れ幕デザイン募集と作成、そして、後夜祭のステージ運営や照明対応なども仕事に入っていました。

 これまた、かなりの激務で、学園祭が始まる数か月前から下準備が着々と始まり、さらに学園祭当日4日間は音響設備業者からレンタルした設備が盗まれないようにステージでテントを張って宿泊したりと、本当に体力・気力勝負の日々でした。

 これまた、1年生や2年生の時にはあまり分からなかったものの、このポジションは軽音楽部の部員数の力をたまに動員してステージ設営などに協力してもらうこともあり、それを大義名分に、「四日間のステージのうちの色んな時間帯に軽音楽部の演奏の時間帯をねじ込む」というのが軽音楽部的な目的になっており、本当に軽音楽部のためになるポジションなれど、軽音楽部の部員からは、なぜ、そんなに大変なのかは説明もされないので、見えづらい仕事でした。(なんか、ひたすら大変そうに見える)

 今でもこの学園祭の頃のことは色んな出来事があって本当にドラマみたいな瞬間が何回かありました。最終日に雨が降ってきたり、後夜祭が雨の中敢行されて、めちゃくちゃ寒かったり。確か、雨の中、後夜祭を中止にするのかしないのか、の決断や議論を学生課でしていたのも記憶があります。ただ、幸運なことに、深刻なトラブルだけは無かったように思います。自分の中央ステージや教室を改造したライブハウスでの演奏も何バンドもあったりで本当に目まぐるしかったです。(軽音楽部には当時、音源審査があり、審査に勝ち抜いたバンドしかライブに出られなかった。)自分の自宅になぜか最終日に帰れなかったり…とにかく色んなことがありました。

 リーダー部だったナカイ君のことを歌った「ナカイの歌」、という歌を深夜のテンションで作詞作曲し、宅録レコーディングしてCDにして学園祭実行委員会の部屋でずーっと流したり。学生時代のある意味で、ハイライトだったかもしれません。

 学園祭の後片付けもやったり、支払いをやったり、終わった後も残務が1ヶ月くらい続きました。

 

■私が4年生になって担当した仕事

 軽音楽部の渉内部長の仕事と文化会本部渉外の仕事はほとんど被っていたので、あまり、文化会本部を意識することはなかったのですが、4年生になり、文化会本部の副本部長になる段階で色々と難題が降って沸きました。

 それが「新課外活動棟の全面改修」「講堂の全面改修」でした。講堂では、軽音楽部や色んな文化部が学内で発表会をする時に使っていました。

大学が創立120周年だかなんだかのタイミングで大きく大学の施設を改修していく波に、課外活動棟も乗ることが出来たのです。

 この段階で私が対大学の交渉担当に任じられ、もう一人の副本部長が管理担当(本来の副本部長業務)という形で役割分担をすることになりました。

 

■改修と引越し

 とにかく、難しかったのは改修期間が3ヶ月程度あり、その間、新課外活動棟は全く使えなくなることでした。立ち入りも出来ず、よって施設で練習することもできません。各部活動とも、例年やっている行事もあります。

 ちょうど夏休みに合わせての改修だったので想定される被害は最小限でしたが、資金面での各クラブへの補助金申請であったり、代替施設を他パート(運動部や吹奏楽部)と交渉して都合をつけたり、各部へ他の練習場所を割り振ったり。本部は便宜的に旧課外活動棟に移されました。

 そして、とにかく、この改修に伴う一連の引越作業や追い出し作業(後述)は熾烈を極めました。色んな人が色んなものを運んだと思います。鉄製の180cmくらいの高さのロッカーを3階から落としたり、数多く存在した開かずの扉をバールでこじ開けたり。。。(もちろん「大学の許可」はとってありましたよ!)いやはや、筆舌に尽くしがたいところがあります。

色んな人の協力があったからこそ、私も講義にも出ながら仕事をすることが出来ました。 

 

■開かずの間

 当時の課外活動棟には「あかずの扉」が10室以上ありました。それは10-30年以上前の学生運動やそれらに付随する「諸々の怪しい団体」が勝手に部室を私物化し、占拠したり、南京錠などの鍵をかけたりして、あまつさえ旧課外活動棟のとある部屋にはシャンデリアを勝手に付けてた人もいました。

 正直、課外活動棟にいた危険団体のことについてはあまりweb上では触れたくはない話題です。なので今までオープンスペースに書くのは出来るだけ、避けてきました。まあ、卒業して時間もかなり経つし、20年くらい?もはや時効かな、と思い、書きます。

 活動の実態を大学側も把握しておらず、誰も立ち入ることが出来ない部屋がたくさん、大学の敷地内の大学の管理する建物にあったのです。

 一部の部屋はデンジャラスな活動家がいる部屋であり、大学の管理は行き届いてはおらず、一部は本当に人が多分住んでたと思われます。

 落書きや張り紙も相当ひどくて、「打倒○○」とか「火炎瓶攻撃が成功したのである」とか学生運動時代と同じレベル感の張り紙が糊でベタベタに貼ってあったりしました。巨大な立て看板がそこらに置かれてて、なかなかに物騒なことが書かれているものもありました。貼り紙を貼ってる人を見たこともあったが、こそこそと赤いヘルメットにマスクをしたあからさまに怪しい人がペタペタとビラを貼ったり、学部の教室にもばら撒きに来たりもしていました。(これ、2000年代前半の話ですよ?)

また、大学近辺で拉致監禁事件やレイプ事件が起こったりもしていたそうです。いわゆる大学の自治?の名残か、警察やマスコミ沙汰にはなりませんでしたが。。。怪しい団体がいるせいか、嘘か本当かはわかりませんがちょくちょく、公安警察が来ていたなんて噂もありました。  

とにかく怪しい団体が非常に多かったです。今も多分結構いるとは思いますが。(怪しさの種類が違うかも)

 本当にここは21世紀の私立大学か?というくらいの施設だったのでした。卒業して何年も経ってから、大学の学園祭で模擬店の客引きをしてる若い子たちに聞くと「この大学は綺麗なキャンパスで、大好きです」という言葉が聞けましたが、自分達の頃はそんなことは殆ど思えませんでした。綺麗だったのは社会学部と大学院棟と学生課と正門と図書館、新体育館、グラウンドくらいのもので、他の学部生たちは古い校舎で勉強していましたし、課外活動棟は何十年も汚いままでした。

 よく、OBの皆さんが課外活動棟が改修されて色んな部室の落書きがなくなったことや、無味無乾燥な印象を受けてさびしい思いをされている諸先輩方もいらっしゃると聞きますが、敢えていうなら私もさびしいですが、大学の部活やその環境なんて、変わっていくのが普通であって、あれだけ放置されてたのが本当は異常だったんだと私は今でも思います。まさに、20-30年、大学は殆ど放置に近い形で、課外活動棟を「アンタッチャブルなもの」として扱っていました。

 それには学生運動に悩まされた病むに病まれぬ大学側の事情もあったんだとは思いますが。だから、変わったことをただ嘆くのではなくて、変わってしまってもちゃんと元気に活動している現役を暖かく見守れればいいなあと思うわけです。

 それにしても、大学の学生運動が残した爪痕というのはひどいものだったのだなと思います。様々なところから当時のバリケードの写真が出てきたり、角材と赤いヘルメットが文化会本部室の隣の部屋(開かずの間でした)から出てきた時には戦慄しました。

 ちょうど、私の伯父さんは学生時代、1960-70年代に私と同じ大学に通っていましたが、その時代がまさに学生運動真っ盛りの頃で、私の父と伯父は、同郷の友人が学生運動にのめりこんでしまったために、機動隊が突入してくる前の日に、友人を懇々と夜中に説得してバリケードから脱出させた、という話をしていました。(父たちは投石されないように傘をさして、白旗を振りながらバリケードに内に入ったそうです。) この話、今になって、調べてみると確かに1969年の秋頃に機動隊との衝突があったようです。また、その後も内ゲバで人死にが出たりと結構やばい感じだったようです。

 昔の学生運動の時代の話が取り上げられる映画やドラマを見るたびに、その頃の学生達の血気盛んな様子が青春群像的に描かれますが、80年代以降に内ゲバが広がっていった後の陰湿な学生運動の残党達がまだ、大学にいて、時代錯誤な主張を繰り返して、ビラを配り、施設に貼りまくり、大学の施設に住んだり、本当に本当に傍迷惑で一般学生の迷惑を顧みない人たちが多数いて、そんな人たちのせいで学生全体が本来受けられる恩恵を受けられない事態になっていたのは大変悲しかったですし、その後始末を結局はなんの関係もない一介の軽音楽部の人間である自分や先輩たちがやる羽目になった、ということそのものが、後年、未だに、イライラさせられる事柄ではあります。

 ジブリ映画でコクリコ坂で出てくるカルチェラタンだとかはまさに雰囲気似てるかなとは思いました。あと、最近だと、映画「罪の声」も後半でそうした迷惑な人たち(学生運動に燃えた)が出てきますが、まさに、本当に次世代の人たちのために何も残さずただ、ただ、暴れて、何も成さず、責任も取らず、大人になっても後始末もつけなかった人たちの後始末をさせられた、という気持ちが大変強く残りました。戦ったやつらはきちんと自分たちの国のために戦ったんだと言うなら、ちゃんと後始末をつけろよな。

 あの世代の連中、つまり自分の親世代なんですけども、本当にちょっと私は辟易としました。社会人になってこれほど時間が経った今でも辟易とします。つまり、自分たちの世代は親世代の「ツケ」を支払わされ続けた、、という感覚でしょうか。

 

話は戻って、立ち退きの話です。

当時、本当に危険な団体相手に大学が立ち退き交渉するために大学は拳法部のOBで国内最強クラスの人をわざわざ学生課に配属したた聞きます。

正直に言えば、私も一度、身の危険がありました。

H切さんも後をつけられたりもしました。

危険人物が角材片手に学生課に乗り込んだ、なんて話も聴きます。その人は、その拳法部の人に倒されたそうですが。。。(!) 


結局改修も終わってみたらサクっと終わり、講堂の改修のためのスペック決めなどをしてから私は任期を終えることになりました。 

それまでは各部が勝手に鍵を付けて管理していた部室は集合管理になり、課外活動棟に鍵の管理番がいる部屋が設置されることにもなりました。(大学の建物なのに、これが無かったってながら驚きでしたが)


改修された後の講堂でのライブを結局、一度も見ることが出来ないまま卒業となってしまいましたが、機会があれば一度見に行きたいものです。。。 (注釈/今ではYouTubeで後輩たちのライブを観ることが出来ますね、良い時代です)


◻️部則

そういえば、この間に文化会全クラブに出された課題がありました。それは、「各部が文化会加盟時に書いたであろう部則を提出せよ」というものでした。

これはある意味、改修にこぎつけるための、正確に言うと改修された施設に入居するための最低条件でした。「規則にしたがってきちんとした活動を行っている大学の公認団体」にだからこそ、「綺麗な施設を使う権利を与える」、(非公認のサークルとの差別化を図る)ということでした。

 

◻️軽音楽部の部則

ショッキングだったのは部の規則が軽音にはどこにも文章で残っていなかったことでした。文化会への加盟当初の書類というと何年も前の書類、でもそれがどこにもなかったのです。結局、その書類は私が現役三回生の間に無理矢理起草することになりました。今でも残っているんでしょうか。(っていうかどういう形にしろ残ってるんだろうケド)

結構悪名高い部則、私は恐らく、OBさんに嫌われていることでしょう。。。色んな「なあなあ」になっていた部分にたくさんメスを入れた結果、あれこれと面倒なシステムになりました。

特に下記の辺りは、相当に批判もあったような気もします。

 

  • 4年生になる前に一旦、現役生としては引退し休部扱いとする
  • 4年生になって就職活動が終わって、部活動を再開したい人は復部届を出す
  • 5年目以降はOBとなり、部活動の正式な行事に関わることは出来ない(ただし、留学して1年間大学を休学していたなどの事情がある人は別)
  • 4年生からも部費をきっちり徴収する

 

4年生になって部費を払うシステムなどは個人的にはスジが通っていると思っていましたが、割を一番食ったのは自分たちの代だったことを考えると苦笑いではあります。 

当時は4年生になると先輩は部費は支払わないし、ライブの準備もしないのに、ライブに出まくるので現役生たちは下請けみたいになっていて、とても理不尽な思いをしていました。1年生が入ってもなかなかライブには出られずライブの準備ばかりさせられるのでどんどん、やめていく直接の原因でもありました。

そうした気持ちの反動が部則にも反映されたのかもしれません。

部則は当時はあまりに提出されてこなかったし、結構、土壇場まで軽音も起草に時間がかかってたと思います。部のコンセンサスを得るのも苦労した覚えがあります。 

◻️残念だったこと
そういえば、これは軽音楽部や文化会はあまり関係無いのですが、私が卒業してから残念な事件が大学でいくつかあったみたいで。 
特に芝生で麻薬取引をやってた、なんてニュースを見たのですが、びっくりしてしまいました。どえらい時代になったのだなあ、と。

それについては私は、もう卒業しているわけだし何か口出しする立場でもないと思うんですけど・・・。 
あの改修前の課外活動棟に比べると改修後には色んな意味で「遊び」が足りませんでした。

何でも規則規則で禁酒・禁煙・鍋禁止・火気取り扱い厳禁の上、取り締まりも厳しくやって。大学の課外活動なのに、どうしてもっと気楽に楽しくやらなかったんだろうって今では少し思います。

当時としてはあれはあれで病むに病まれぬ事情もあったのですが。。。(そういった規則で課外活動棟を縛ろうとしたのはほかならぬ私たちの世代です。問題を起こすわけにはいかない状況でした。) 

その閉塞感が何かしらの残念な結果を遠因的にであるにせよ、引き起こしたような気がしてならないのです。いや、それを証明できる手立てなどどこにもありませんし、考えすぎだとは自分でもそう思うのですが、それでも、世の中には曖昧なままにしておいたほうがいい物事や、縛り付けすぎると鬱屈するものがあるのではないか、とそんな風に思うわけです。

管理監督しているだけではさまざまな初期衝動を上から抑え付けるだけで、発散することはできない。

だから、考えられないようなことが発見されて摘発されてしまう。

いまさらこんなことを言っても後の祭りではありますが、私はそういうことを結果的に大学の課外活動を通じて今も学ばせてもらっているのだと、そう思っています。

今の世代はまた、それはそれで、あの大学を綺麗な大学だと思っている幸せな世代だし、あんなに汚い場所で活動しなくて済むのはそれはそれでハッピーなことだと思います。でも、やっぱりエネルギーというのは健全に発散されてこそ、しかるべきだなあ、だなんて思うわけで。。。 

H切さんやS本さんの頃は「施設を改善して、もっとよい施設で活動しよう」という最終目標があったのでそれに向かって頑張ればよかったのだと思います。

文化会本部が出来て10年くらいが経っていて、中だるみしていた時期に施設改修の話を持ち上げたのがS本さん。

既存の課外活動団体代表の意識改革と変革、そして施設自体の掌握をH切さんの代。

実務的な改修とそれに伴う引越しなどの雑務を私たちの代で、やったのでこの流れはそれで完結しちゃったんだと思います。

 

◻️学友会が無い

 大昔は、大学内には学友会という組織があって、大学内での重要な決定事項は学友会で決議しており、その頃は在籍する学生全員から会費を徴収していたので潤沢な予算の元、大学と直接の対等な交渉を行っていました。

一人年会費500円集めるだけでも、2万人以上いる学生人口を考えると学生組織としてはすごい予算の組織だったはずです。 

 そんな学友会の主導の下、各パート・各学部の自治会が存在していました。

しかし、1960-70年代の学生運動とそれに伴う混乱の後、崩壊してしまった学友会や自治会や各パートの本部はずいぶん長い間設置されないまま、放置されていました。 (ここにも学生運動の爪痕が残っていました)

 この、「他大学には当然存在する、生徒による大学の自治」と当事者意識が生徒にほとんどないのが某大学なのです。少し調べればすぐわかるのですけど、他の大学には学友会は普通に存在するものです。 

◻️学友会が無いから起こること
この学友会の不在が 

  • 新入生歓迎オリエンテーションにおける各パート有力団体による寄り合い所帯での団体の管理(大学側から、中小のサークルへの不信によるもの) 
  • 学園祭における文学部学園祭実行委員会の長期にわたる不在 (ある子の努力によって状況は劇的に改善、近年文学部祭実行委員会は復活に至る) 
  • 各学部ごとに学園祭実行委員があり、毎年恒常的な組織がなく毎年発足して毎年解散する。(これも学友会や自治会という恒常的な組織が存在すれば必要のない作業だと思われる) 
  • 課外活動パート(体育会、文化会、応援団、学術研究会、サークル祭)に学園祭の管理運営部分の重要部分の大半を任せてあったりする。(これは大学が各学部で毎年発足する祭実(祭実行委員会)を信用していないことの裏返しであり、課外活動パートの人間の方が大学としても「信用できる」から) 

といったいびつな構造の直接の原因でした。

(だから、経済学部だけは自治会が維持できているので 各学部の祭実の中で一番発言力が強く、毎年主導権を握っている) 

これらは学友会や各学部の自治会が崩壊に至った経緯により、大学側が極度に課外活動の「過激な部分」に過敏に反応してしまい、長い間、体育会、応援団以外の課外活動への不信感を持っていたことが原因だと思われます。(体育会、応援団は学友会崩壊時にも学生運動に加担せずに大学側と行動を共にした) 

◻️文化会本部もまた近年に復活した組織であるということ
 そして、十数年前、文化会を再発足するときに 
文化フェスティバルを開催して実質的な活動を行っていることを 対外的にアピールし、翌年、文化会本部は復活したのです。
(だから、「今年は面倒だし、人員も割けないから文化フェスティバルを開催しない」という選択肢は本当はあまり好ましい選択とはいえない。毎年きちんと活動を対外的にアピールすることが大学側へのアピールになるし、大学としても安心して援助することができる) 

◻️文化会の立場
 それでも変な話ですが、学友会というのは大学の中では、 一応「今でも存在する」ことになっていて、 文化会本部や学術研究会の運営委員には大学との直接交渉する 「立場にはない」ことになっていました。
交渉するのは本来は「学友会の仕事」ですから。 

だから、施設改修の話題を大学側と交渉するときも 非公式な場でのオフレコ発言、という前提の上でしか 交渉することが出来ませんでした。

ただ、交渉のテーブルに 大学側が座り始めて、ようやく話らしい話が始められたことだけでも 当時としては大きな成果だったんですね。(それがS本さんの時代です。)

当時としては、文化会本部以外の団体が大学側と交渉することなど出来もしなかったので。 

 そして、緩みきっていた文化会の組織自体の引き締めを図るためにH切さんが登場、本部と主将会議を対立構造に持ち込んだ本部会則に改正して、対等な関係に敢えて持ち込み、主将会議、つまり各クラブに文化会という団体への強い参画意識をもたせようとしました。

各クラブのリーダーが集合することで、文化会というのは成り立っているのだ、ということを強く意識させようとしたんですね。それまでは主将会議などほとんど開催されたことなどありませんでした。(年2回?) 
また、それまでは、どうしても本部の仕事というのはめんどくさい、人員を取られる、出来れば避けたい仕事でしたが、それも持ち回りにすることで各クラブがきちんと意識を持てるように仕向けようとしました。 
部則の話もそうですが、課外活動というのは各団体が強い参画意識を持って取り組まないと施設改修の希望など通らないのだ、ということを制度を整備することで示しました。

強いリーダーシップと交渉力と広い顔を備えた本部長だったので、大学側の次長クラスにも強力なコネクションを築いていましたし(方法はいまだに不明だが、リーダースキャンプなどから徐々にコネクションを築いたと思われる)、各パートの代表も一目を置く存在だったわけですね。 


よくH切さんは「お前の団体をつぶすくらいは難しいことじゃないんやで」などと冗談とも本気とも取れない態度で各部と話をしていましたが、各団体の抱える問題や課外活動団体としてふさわしくない活動実態なども正確に掴んでおり、やろうと思えばいつでも出来る、ということをしっかりと周囲もよくわかっていたのでH切さんが言い出すことに対して異論がありませんでした。若干、恐怖政治にも見えますが、これらのことを結構楽しく出来ていたのが当時としては結構画期的だったように思います。こればっかりは真似してできることではないと思います。 


私にとっては社会人生活を始めた今でもH切さんは「理想の上司」の一人です。 

課外活動棟の改修以後はそれほど、これといって特筆することはないようにも思いますが、ひとついえることは、 こういったこれまでの時代の経緯や大学の体質や学生側の意識の変遷を踏まえた上でなければ大学側と「まともな交渉」を「まともな立場」でしていくのは難しいということでしょう。 


文化会本部は学生生活課の下部組織ではなく、対等に交渉を行い、それによって得られた利益を文化会各クラブに分配するための組織だと私は思いました。

もちろん、大学側と協調関係を築くことは大事ですし、学生課の担当者と信頼関係を築いていくことも必須ではありますが、あくまで大学組織の下請けではなく、手伝いなどに人員を割くのであればそれなりにリターンを計算する必要があると思います。

何の見返りもなく、お手伝い人員だけ供出するのでは呈のいいタダ働きと同じだと思いますし、人員を輩出している各クラブへの背信行為だとも思います。

当然、本部が必要と認めて出している人員であれば、それは、弾劾されるべきではないと思いますが、その必要/不必要の判断自体はあくまで、加盟団体の得られる利益/不利益を熟慮し、比べた上で行われるべきだと思います。 

大きな目標やテーマを持って課題を設定しながら団体運営していかなければ、緊張感を持って文化会自体を維持運営していくのは難しいでしょう。 

あくまで課外活動、本分はやっぱり勉強であることも間違いのない事実です。
結局は、文化会本部の活動自体をどれくらい面白いものにするのもしないのも本人次第、なのでしょう。

そういう意味では私は先代のおかげで楽しめるレールを敷いてもらっていたのでラッキーでしたし、逆にそういうレールを後進のために敷いてあげられなかった私は後輩に悪いことをしたなあ、とも思います。

 
私にとっては下世話な話、「1000人の団体の副本部長で、大学側と交渉して施設改修を行った」ということは履歴書や面接などでも使えたネタですし、この経験自体から学んだことも数多くあります。この経験なくして、今の自分はないとも思います。もう、そういう時代でもないかもしれませんね。

 

◻️余談

 1個下の後輩で商学部の祭実行委員で初の祭実の舞台局局員だった第一回K.U.R.Fを考案したK端くんはとても情熱を持って「学生主体で学生が大学の学園祭を盛り上げる」ことを主眼としてイベントを提案してきました。 昔は中央ステージは軽音の独壇場で、軽音の渉内部長としては軽音の枠をどれだけ、確保するか、ということが仕事といえば仕事でしたし、祭実はアーティストを呼ぶことばかり考えていたんですけど、そんな中では異質な彼の熱意に打たれて2時間半もの枠を彼に任せました。機会の均等性を考えれば「学園祭実行委員の舞台局としては」あの判断は間違ってなかったと思います。今でも恒例行事になっているみたいで私はうれしいです。 


2コ下の文学部祭実委員会を復活させた子は文学部に祭実がないこと、大変ネガティブな理由(過去に文祭の部室で監禁事件があって、文祭はつぶされた)で文学部の事務室が学園祭実行委員の復活を拒んでいたことに問題意識を持って2回生のときに実行委員を復活させようと奔走しました。彼女とはほんの少ししか一緒に仕事をしたことはないけど、それでも彼女の情熱や問題意識の高さには感心させられました。 

◻️何をすべきか
 大切なことは「何をするか」ではないと思います。

それはあくまで結果であって、「何を考えて」「どうやって思いを伝えていくか」が何より重要だと思います。情熱だけではダメです。でも、情熱や思いのない行動では人は付いてきません。

 もしも、問題意識が芽生えたならば、まずは思いを伝えていき、理解してくれる仲間を作ることが重要だと学びました。

焦る必要はなくて、一歩ずつ踏み出すことが大切だと思います。

真剣に向き合っていけば、課題は見つかります。

当然、すぐには出来ないかもしれませんし、1代の間には描いた到達地点へは実現できないかもしれません。

でも、思いを共有してくれる仲間であったり後輩を育てることは可能なはずでらそういう思いを引き継いでいけば、ゴールを常に描き続けることができれば、新しい時代を築けるのでしょう。

私はあの貴重な経験のおかげで知見や世間が広がったとは思っています。

「大人=社会人との付き合い方」もあのとき学んだように思います。

今でも大学には学園祭のときにお土産片手に遊びに行きます。

自信を持って取り組めば必ず結果はついてくる、そう思えるようになった、あの活動やそれを支えてくれた皆様には今でも感謝してもしきれません。