年始のこと。

 

1月某日、仕事をしていると妹から電話があった。が、取り損ねた。

電話に出られず、バタバタと家で仕事をしていると、後からメッセージがあり、救急車を呼んで父が入院することになった、という話だけ、端的にLINEメッセージが来ていた。

どういうことか、判然としないまま折り返すも妹は電話に出ず、そして、自分もまた用事があり、渋谷に出掛けることになった。メッセージのやり取りをしたり、電話をしているうちに、おおよそのことが理解できた。

 

・父の介護保険申請の相談を役場にしに行ったこと。

・そこから市役所のケアワーカー?ケースワーカー?が家に見に来て、非常に具合が悪そうな父を救急車で病院に運ぶことを提案したこと。

・ここ2日間ほどご飯を食べてなかったこと。

・今は精密検査をしていること。

 

最初話を聞いてるうちは命に関わるような話でもなさそうだったが、話が刻一刻と変化していき、父が肺気腫であり、全身のCO2濃度が非常に高い状態であり、楽観視できる状態ではないことがメールや電話で分かってきた。肺気腫は治るようなものではないこと。72歳だが89歳のような肺の状態であること。

仕事のために渋谷にいたが、ところどころで電話に出て話を聞き全体像がわかってきた。

チェーンスモーカーだった不摂生な父がこのようなことになるのは薄らとは予想していた。

私は子どものころ、ずーっと父がタバコを吸うたびにその副流煙を吸っていて、タバコは嫌になっていた。家の家具はヤニがついて黄色くなってしまったくらいにはチェーンスモーカーで、私は昔、それこそ2007年だか、2008年だかに実家の冷蔵庫を必死で激落くん(メラミンスポンジ)で拭いたことを思い出す。

肺の病気は辛い。父方の祖父は最後は肺ガンになり、片肺を切除した挙句、もう片肺の肺炎で亡くなったことを思い出す。息ができない、息がしづらい状態というのは極めて身体にはしんどく辛く苦しい。肺気腫も同様に苦しいのではないか。

 

今は酸素吸入をしているが、もしかすると、状態次第では喉からの挿管に変えるかもしれないこと、なども話があった。

果たして、年末の姿を見るに、父がここから快方に向かったりすることがあるのか、甚だ疑問はあった。

そもそも、健康診断や人間ドックにも行ってなさそうな父はセルフケア、セルフメンテナンスもできてなかったわけで、ここまで酷くなるまで放置してきたことからも、複雑な気持ちになる。

もはや、野となれ山となれということなのだろうか。年末に会った時に布団に入りながら訥々と言っていた「私はお前と妹を育てて大きくした、天寿を全うしたのだ」という父の言葉を思い出す。

 

父は意識不明だが、もしもの時に、挿管しますか、しませんか、の話が電話口であり、そんな年末の父の姿を思い返した。

切開してしまうと、話すこともできないと。

私は、冷たいようだが、そこまでして父は生きていたくはないのではないか、と話したが、父の兄や妹はそうは思っていなかったそうで、結局、もしもの時は気管切開して挿管する、ということになった。

 

電話したら父の兄は、医者には出来る限り手を尽くして欲しいと言っていた。一緒に住んでいる妹も同じ気持ちなのはそうだろう。

私は息子といえど、遠くに離れて住んでる人間であり、そこまで強く言える立場でもない。私は冷たい人間と思われているだろうし今後もことあるごとにこのことは言われるのかもしれない。

 

で、水曜日の夜だったのだが、金曜、土曜日、日曜と帰省することに決めた。

木曜にそうした段取りをしようとして出社したが、昼過ぎに妹から挿管することになった、よろしくない状態だ、という話があった。色々考えたら、あまり時間は変わらないが、やはりすぐ地元に戻ることにし、全ての木曜と金曜の予定をキャンセルした。

上司や同僚は心配なく、とは言ってくれるものの、残念ながらやることは山積みの状態であり、自分でなければできない領域の業務もあることから、そこは夜にでもどうにかするしかない。

帰宅して、荷造りして、スーツケースに着替えを詰め込んで家を出たら15時。新幹線に乗りこんだのが、16時前。新幹線はぐんぐん進むが静岡から愛知にかけてがひたすら長かった。仕事をすることもできたが、そんな気にもなれず、仕事のスマホをちらちら見るだけになった。

岡山に着いたのは19時過ぎだったか。そこから30分ほど待ち、観音寺までの特急に乗りこんだ。

久しぶりに乗る新幹線はどんどん進化していく一方で、久しぶりに乗る特急しおかぜは自由席は何も変わらずひたすらプラスチックが黄変を続けているような風情だ。電光表示だけが少し新しくなっているが、他は何もかもが、昔と変わらず古さを感じさせた。指定席は座席含めて新しくなっているが、この差はなんなんだろうな…

乗っている客たちが、本ではなくスマホを見続けているのが、昔との違いかもしれない。よくよく考えると、大学生以降、結構乗っていた新幹線やしおかぜだが、2014年あたりを最後に駐在していたからあんまり乗らなくなった。つまり、10年。10年は長い。駐在中は地元に帰る時も飛行機だったのだ。(帰省する理由で高松を目的地にすると、そこは会社から払ってもらえていたのが大きい)

 

地元の駅に着くと、妹が迎えにきてくれて無事ホテルにチェックインできた。ホテルは古いホテルでリノベーションしようとしている風情があったが、それは入り口の食堂だけで、部屋はそんなことはなく、ひたすらに古いビジネスホテルという風情。グランドホテルという名前なのだが、昔はこれでも「グランド」だったのだろうか。部屋のアラばかり目についてしまう。シャワーカーテンはカビてるし、浴室も微妙にカビが気になる。布団とベッドは綺麗だったからギリギリ寝られた。トイレも元々のトイレに無理やりシャワートイレを装着した感じで便座がたびたびズレる。

まあ、文句言っても仕方ないと言い聞かせつつ…

 

翌朝、近くのコンビニまでつらつら歩き朝ごはんを買ってきて食べてCESの報告会をzoomで視聴し、そして妹にピックアップしてもらい、まず、銀行関係の通帳の記帳などから始めた。なんせ、そのあたりの管理もどうにもこうにもな感じだったので。カフェにこもり、1.5時間ほど電気ガス水道やらお金の流れをまず把握して、生命保険関係を確認し、保険会社には電話して申請用紙を依頼、水道工事屋に確認を依頼、考えたくないが、念のため葬儀社に資料請求などなどやるべきことをテキパキとこなした。全てGoogleのformsに記載して、妹と共有した。文字を紙に書いてコピーするのでは二度手間になる。わたしの時間が限られている中ではこれしかない。

 

その後、金土と泊まる宿にチェックインしにいく。今回は金土の宿はあらかじめとってあった。なぜか、チェックイン自体は詫間町、宿泊は観音寺という変則的な方式で、チェックインする際に宿泊利用の注意事項の説明を受ける形だ。

で、宿泊先には行かずに、そのまま病院に向かった。ICUに入っているので面会時間が30分と非常に限られている。手指消毒をして、体温を測定し、記帳し、決められた時間に入っていく。妹は来るのが実質3日目だけにもはや、慣れている。

妹は父の着替えを引き取った。父は点滴の管やら酸素を送り込む管を付けられていて、話すことができない。管を外そうとしたそうで、やんわりとした拘束を受けている。(妹には事前に承諾の連絡があったそう)

父は意識を取り戻し、目が覚めており、わたしの手を握り、何かを伝えようとしているが、何かがわからない。これはかなりもどかしい。

指で何かを指し示しており最初は数字を示した後、あまりに必死なのでペンと紙を渡したところ、何かを書こうとする。しかし、紙を見られない中で文字を書くので解読が難しい。10分ほど何回ももどかしいやり取りをした後、117と書けて、これが日付なのだと理解した。そういえばそろそろ母の命日であった。(実際には1/18であった)

ことここに及んで、36年も前に亡くなった私たちの母の命日がなんだというのだ、という感じだが、墓や仏壇を参ってくれということなのか?というとそういうわけでもなさそうで、もう父は生きていたくないのかなとも思ったが、そんなやり取りをした。結局、真意を測ることは難しかった。

 

病院を後にして、実家に戻った。

正直、本当に気が乗らなかったが、言っても仕方がないので、祖父母の遺品やら父の部屋の掃除をすることに。申し出てくれたのは父の従姉妹。ありがたいことに一緒に頑張ってくれた。実際のところ、田舎の親戚は段々と、亡くなったりもしてる中で、妹があれこれと親戚のために動いたりしていたおかげと言われているが、父の従姉妹の皆様が助けてくれて実家の片付けを進めた。

 

とはいえ、祖父母の遺品の量がとてつもない。昭和40年頃から開封されていないだろう箱詰めになったお歳暮やお中元が山のように出てきてそれを箱を壊して分解して中身はリサイクルセンターに出し、箱も捨てる算段をつけて、祖父母のタンスの中身も確認して、全てをゴミ袋に入れた。

この作業、文書にするとあっさりしてて短いのだけど、箱の数も多く、背の高い上の段の押し入れに入っていて、しかも、住み着いた害獣の残した色々を掃除しながらと非常に大変で壮絶。

 

父もなんというところに寝てたのか…と絶句しながら、もはや、まともな生活は出来ていなかったということだったのだろう。

とはいえ、それでも、凄まじい量のゴミやらをまとめたり、と途方もない作業量。どういう暮らし方をしていたのか、絶句しながら、今後必要なものが殆ど無い中で不用品を積み上げていく。

親戚も必死になってやるが、キリが無い。平成末期の書類も多く出てきてそれをひたすらに開封しては分類し不用品をゴミ箱へ放り込んでいった。

 

とにかく、ゴミまとめと掃除を進める。

ひたすらゴミを捨てる中でふと思ったことがある。押し入れから出てきた三越の紙袋に入った大量のおしぼり。きっと何かの折に手に入り、何かがあった時に、と祖父か祖母が押し入れに入れたっきりになっていたのだろう。それはたぶん、3-40年以上は前の話だろう。それから、そんな何かの事態は起きず、その押し入れは誰にも顧みられることなく、そして今になり、私が開けて全て燃えるゴミの袋に私のため息と共に叩き込んだ。

 

その時に、「必要になる時が来るかもしれないから」と思った大正末期ないしは昭和初期生まれの祖父母の意思決定を責めても仕方がないのかもしれないが、その後、たっぷり15年くらいあったのに、それを整理することもなく、その押し入れをそのままにして、その周りに自分の好きな無線機やらを積み上げて引きこもっていた父に私は憤りを感じながら片付けを続けた。なぜ、何もしなかったのか。1ミリも祖父母の遺品整理が進んでいない。そして、結局、私がやっているではないか。

15年ほど前に一度実家を大掃除したことがあるが、その時から何も変わってない。結局、ろくに掃除もせずに暮らしていたことに暗澹とした気持ちになる。

私は15年前に、ひたすらその掃除で大変だったとき、家族が何もしないことを親戚に愚痴っていたが、その時に親族たちから、口々に「もう放っておきなよ、住んでない人がすることじゃない」と諭された。

 

それから、私は実家とやや距離を置いた。

もう、掃除に口出ししなくなり、好きにしたら、という態度に変えた。

 

しかし、結局、そのツケを今払わされているのは他ならぬ私だった。一体何だったのか。

 

 

通帳をすべて見ると、漠然とした不安は無くなった。

水道屋の件は結論から言えば手配した水道屋さんではなく、別のおじの知り合いの水道屋さんに後日、格安で修理してもらえた。値段が20倍も違い、絶句してしまった。安く済んでよかったのだが。結局水漏れの原因はわからず、代わりの配管を引いてもらうことになった。

 

庭木も伸び放題でもはや、元の形が思い出せないほどだった。邪魔な枝だけ、ノコギリで切り飛ばした。

 

家もかなりいたんでいる。

 

疲労困憊だが、食事をレストランでとり、三日三晩そんな暮らしをした後に一度東京に戻った。

私がいない間、妻はなんとかかんとか踏ん張って家族といつも通りの暮らしをしてくれた。

 

そして2週間ほどして、再度、父が治療方針に対して納得していないということで、困っていると言う相談が妹からきた。仕事の調整が即座にはつかず金曜日に帰省した。

 

金曜日の朝、高速バスから降りて、私は丸亀の寂れた商店街を歩き、市役所の近くのスタバに入り朝からテレカンで役員さんと会話した。そして、妹に迎えにきてもらい、食事をとり、病院へ向かった。

 

人は年齢問わず、老けるとだんだん、みんな似たような顔になるのだが、父の顔が祖父や祖母が入院していた時のように見えて、辛かった。

 

もう、これはたぶん、そんなに元気にはなれないだろうなと思わされる。管に繋がれていてなんともいえない気持ちになる。自分もまたいつか肺気腫かどうかはわからないが、こうなるのだ、と思うと暗澹とした気持ちになる。

 

生きると言ったって、こんな風になってしまったら一体何を楽しみにして生きれば良いのか。

 

いっそのこと、元気なうちに安楽死を選ぶのもまた、一つの選択肢にすら思える。父もまた治療を拒否していた時はそんな気持ちだったのではないか。

 

しかし、親戚や私の家族は治療を希望した。唯一、私だけが、そこまでして生きることに対する疑義を呈したのだが、そこは理解されなかった。

私が遠くで暮らしてるからなのだろうし、年末に父からそういう気持ちを聞かされていたからかもしれない。周りからすれば、私はきっと、薄情な息子に映っただろう。

 

2度目の帰省で治療を渋っていた父は自分の意思で治療を選択した。が、ここからはきっと大変だろう。遠くに住む私にはできることは限られている。地元に戻ってまでできることもまた限られている。金銭的にも時間的にも頻繁に帰省できるわけでもない。一緒に住んでいた妹に頑張ってもらう必要がある。

 

気管切開した後、父は病床で伝えたいことがあるということで耳を傾けたが、なんとかして口パクと身振り手振りで伝えてきたことは私を絶句させた。

それは年末にも言っていたことだった。

私の心は正直、サーっと醒めていくような気がした。

私には伝えたかった良いニュースもあったのだが、そんな話は聞いてなくて、もはや、私をそのようにしか見てないのかと悲しかった。今回の書類整理でも、私の手紙は取ってあるものが多かったが、別に未決書類と紛れて置いてあり、必ずしも大事に扱われているとは思えなかった。

 

隣で聞いていた私の妹もまた「それは兄に対して失礼だろう」と憤慨していたが、実際のところ、失礼というか、なんともいえない気持ちだった。

 

私は「申し訳ないが、それは無理だ」と父に伝えた。もしかすると、親不孝かもしれない。

 

病床にいて、必死にそれを伝える父に怒る気にもならなかった。私には妻もいて子どももいて、これからますます、子どもたちをしっかりと育てていかなければならない。それが自分のやりたかったことであり、やるべきことだと思っている。

その昔、母を早くに亡くし、痴呆症になってしまった祖母と長く暮らしヤングケアラーをやっていた私からすれば、いわゆる「普通の家庭」を築きたいというのが、私の昔からのやりたかったことであり、それが実現できなければ私は自分が生きている意味などないとも思っている。

 

「普通の家庭を持つのが難しいことなのだ」と昔、父は私に言ったことがある。

私もそう思う。子育てをしていて、子どもは自分の思ったようには動かないのだとよくわかる。

 

が、私からすれば、そんな困難に挑まなければ、一体、なんのために生きていると言うのか。

 

父は私をなんとか育てた。妹も育てた。子どもを持つ親として、願うのは子どもの幸せだ。それは確かに今となっては一定、理解できる。

だから、父が、私にそれを頼むのはわからないではない。

端的に言えば長いこと、仕事をしていない妹を助けてやってくれ、ということなのだが、それは精神的に、と言う話ではなく、経済的、金銭的にと言う話であった。

具体的な金額にまで言及したのは今回が初めてであったが、その金額は想像を1桁超えていた。そんなお金はどこにも転がってやしない。気軽にそんなお金を出せる人がいるなら、教えて欲しい。

 

兄妹が助け合う姿、というのは親が望むことだろう。だが、「度を超えた助け合い」ははっきり言えば、依存だ。そんなことをすれば、人は生きていく活力も気力も湧いてこない。冷たいのかもしれないが、私はそう考えている。聞けるお願いと聞けないお願いが世の中にはある。どうだろうか、昭和や大正、明治の時代であれば、また違ったのだろうか。フーテンの寅さんではないが、ふらっとやってきて泊まりにくるくらいなら、わかるが、血を分けた兄妹であろうと、妻でもなければ子でもない1人の人生をまるッと丸抱えなんて出来るわけがない。それを頼むのはいくらなんでも無責任だ。

 

私はうまくできるかわからないが、娘たちをなんとか経済的にも社会的にも人格的にも自立できる子たちに育てようと思う。

 

お父さんには到底理解してもらえないかもしれないが、それこそが、本当の意味での祖父母や父への恩返しだと思っている。

年末年始のこと。

 

この日記は数日前にラスベガスからの帰りの飛行機で書いたものです。

 

年末年始に地元香川県に帰省した。

ここ5年ほどは地元に帰省するとは言っても、自分の家に入っていなかった。やっとこさ帰省できた2022年、父親や妹は私たち家族が実家には泊まれないという話をした。とても悲しかったが、致し方ないと理解してきた。余裕が無いのだと言い聞かせてきた。住んでない人間にあれこれ注文をつける権利も無いと思ってきた。

しかし、自分が生まれ育った実家に帰れないのに、香川には帰省する、というのは少々つらい話で、結局、地元に帰り親戚と会い、父親と妹は食事をするに留め、ホテルで宿泊して東京に戻る、ということを繰り返してきた。

そんな状況でも、娘たちは自分たちの祖父や叔母に会えることを楽しみにしてくれていた。

今年の年末も2日だけだが、地元に帰ることにしていた。

しかし、結論から言えば私たちの娘たちは祖父に会うことはできなかった。

滞在2日目の夜に食事をするべく焼肉屋で待っていたが、妹から父がお風呂から出られないと連絡があった。妻と娘たちには待っててもらいながら、私だけ慌てて家に戻った。駐在やコロナの影響もあったから、5年ぶりの自分の実家だったが、すっかり荒れていた。庭木は生え放題で大変なことになっていた。部屋も長い間、掃除されてないことがはっきりわかった。

確かにこれでは、自分たちが泊まるのは難しい。

自分の実家はそういう感じ…というのはそれこそ、15年以上前、からわかっていた。掃除や片付けができないのだ。する気が無い。生活をきれいに保つ気が無い。誰も訪ねてこないから尚更だろう。人目を気にする必要が無いと人は掃除をしなくなる。家をきれいに保つのに、適度に人を呼ぶことは結構重要なことなのだ。そうした環境に長くいると、人の心は荒む。気力も湧かなくなる。それは留年した時の自分がそうなりそうだったからわかる。いかに酷い生活でも、どうでもよくなるのだ。

親戚も駆けつけてくれてなんとか風呂から助け出したが、風呂で寝ていたという。そして、体に踏ん張りが効かなくて、身体が浮かんでしまって風呂から出られなくなったと言う。すっかり痩せてしまった父。ヒゲも伸び放題で別人のようになっていた。これでは確かに食事には来られないだろう。そこで、なんとかタオルにくるまってもらって座敷まで運び、布団に寝かせた。すっと立てないほどに足が、お尻が痩せてしまっていた。なんとも、居た堪れない姿だ。寒くて震えてる、声も震えて歯がガチガチしていた。そして、弱気なことを言う。これは息子としてはなんとも言えないものだった。父親が元気な時には憎まれ口の一つも言っていたわけですが、そんなことを言う気も起きない。

私たちに会うためか、新しい服も買ってあったようでそれを急いで着せた。悲しいくらいに細くなっていた。父はあくまで私には虚勢を張りたかったのだとは思うのだが、もはやそんなことは言っていられるレベルではなくなったのだと思う。

 

部屋のにおいが祖母が寝たきりになっていた時に似ていた。そもそも、祖父母が寝床にしていたところを父も寝床にしていたわけだが、あまり良いことではないなあと感じていた。私はあの部屋にはあまり良い思い出が無い。祖父母が元気な時、つまり私が小さい時は私も一緒に寝泊まりしたこともある寝床だが、祖母が寝たきりになって自宅介護していた場所でもあり、祖父が肩が痛くて肩を揉んでくれと言われて小一時間も毎日揉んでいた場所でもある。はっきり言えば、良い思い出よりも辛い思い出が多い。

そんな父に掛ける言葉がなかなか難しい。父は「もう、後のことは頼んだ、お前の妻や娘たちには申し訳なかった」と言うのだが、人間はそんなに簡単に死ねないし、身体の調子が悪いままで生きる方が辛くて苦しい。出来る限りの間、健康なまま生きて生きて、生き抜いて力尽きて亡くなるのであればわかるが、無為な時間をただひたすら過ごして心貧しく生きて、死を予感しながら生きるのは果たして幸せと言えるだろうか。本人は腰が痛いとか足が痛いとか歩けないとか言うわけだが、一つ一つでもやれることをやって暮らしていくしか無いし、歩けるようになるためにできることをやるしかない。病気になれば、病院に行けば良いし、それだけの医療を受けられるだけの皆保険制度が日本にはある。が、本人にその気が無い。ただ、結局、その無為な時間の介護を妹がすることになる。

 

自宅介護は辛い。本人と介護者の両方の尊厳に関わる。疲弊する。共倒れになる可能性も高い。出来るなら介護者は近親でない方が良い。そして、介護保険制度も日本は充実している。介護認定は通常厳しい判定になるし、老人ホームの待ち時間は長いから、出来るだけ早めに申請するのに越したことはない。

 

年末年始になると、亡くなるお年寄りが増える、と言う話をよく見るが、お餅が一つの原因だと思っていたが、そのほかにも、お風呂に入り出た時のヒートショックが原因なのでは?という気がする。父も風呂の湯船に浸かった後、意識を失っていたようで、3時間もそのままだったという。うちの実家のお風呂には追い焚き機能や温度調整機能は無いのでひたすら冷たくなる湯船の中で寝ていたというのだ。危うく死ぬところだったのではないか、と思うと背筋が冷たくなる。

 

私にとって、父は常に頼りになる、大きな存在だった。私たち家族は母を早くに病気で亡くして父方の祖父母宅で暮らしてきたわけで、私の中では祖父もまた育ての親ではあるが、もちろん、父がいたからこそ、今の自分がある。人格形成に大きな影響があったと思う。

 

そんな父が苦しんでいるのだが、自分にできることがあまり無いことが苦しい。自分は遠くに暮らしているし自分の家族もあるし、妻を守り、娘たちを大きくしていく責任がある。ただ、それも言い訳なんじゃないか、という内なる声も出てきたりと、非常にもやもやする。このもやもやは日記に書けないようなことまで含めてずーっともやもやしている。

 

父は「わしはお前たちを育ててもうつとめを果たした(天寿を全うした)」といったことを言ったり、近所に住んでいた仲良くしていた友人が火事で亡くなったことによって気が滅入ってしまったという話をしきりにしていた。(これは実際にそういうことが昨年頭にあった)

私は、介護のことも考えなくてはならないのではないか?と切り出したが、父はそんなお金があるか!と言っていた。が、介護自体はそんなにお金がかからない。今後きちんと説得していかなくてはならないのだろう。いや、自分の息子からそんなことを言われたくはないのだとは思うけども。

 

妻と娘たちを迎えに行かなくてはならず、家を後にした。心苦しいながらも妹や親戚に頼るしかなかった。果たして、これからどうすべきなのか。再度、実家には戻り父を説得して手続きだけでもせねばならないだろう。まずはこまめに電話をしていくしかないのだろうか。

 

無能の鷹と錯覚資産

要約版

 

無能の鷹と錯覚資産

菜々緒主演のドラマ「無能の鷹」は、ナンセンスながら笑いを提供するお仕事ドラマ。観ながら思い出したのが『錯覚資産』に関連する本で、内容は「人生は運や実力ではなく、相手に『勘違いさせる力』で決まる」というもの。

ドラマの主人公鷹野さんは、仕事は全くできないものの、堂々とした態度や外見で「有能そう」と錯覚させる力を持っている。

 

コロナ禍以降、日本のビジネススタイルはカジュアル化したが、第一印象の重要性は依然として高い。鷹野さんは毎朝しっかりスーツを着こなし、スタイルの良さと根拠のない自信による堂々とした態度で社外の初対面の人たちを惹きつける。これが「錯覚資産」の力であり、相手に「この人は信頼できる」と思わせる能力は、ビジネスやその他の場面で非常に有効だ。

 

重要なのは、「仕事の話ができること」より「結果を出すこと」。鷹野さんのように、堂々とした態度で人間関係を構築し、相手を安心させる能力は一種の特殊スキルであり、会社に価値をもたらしている。

 

このドラマは表面的には軽いコメディだが、実は「見た目や態度が結果に影響を与える」というビジネスの本質を描いている。気軽に観られる一方で、深く考えさせられる内容だ。

 

以上AI要約

 

 

以下自分で書いた版

 

さて、今期のドラマで途中から見始めたのが菜々緒主演の無能の鷹。かなり面白い。毎回、思わず突っ込んでしまう。時に笑い疲れるくらい笑ってしまうのだが、これくらいナンセンスなお仕事ドラマもたまには一種の清涼剤だろう。

 

無能の鷹を観ていて思い出したのが錯覚資産に関する本だ。

 

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

 

この本のことを思い出した。

 

まあ、確かに無能の鷹の主人公である鷹野さんは驚くほど仕事ができない。ネットサーフィンはできるのにダブルクリックがわからない、とか、もはや、病気なんじゃない?とも思うし、英語が話せない設定なのだが、やたらと単語の発音だけが良いというのも解せない。発音から入るのは英語の基礎的学習において、非常に重要なのだ。たかのさんは本当は英語話せて然るべきなのだ。ホッチキスしか留めれないとか、エクセル操作できるようになったらAIが全部自動でできるようにしてくれるようになった!とか、最近の話題も挟んでくる。

 

毎朝しっかりバッチリメイク決めて、スーツを着こなし、スタイルは流石の9頭身。

ぱっと見、すごい仕事ができそう、と相手に思わせるというのは実はコロナ禍を経た日本で、いまだに結構重要でもある。

 

みんな、リモートワークを経験してから、日本でもビジネス環境におけるスーツスタイルにも変化が生じており、コロナ前比較でカジュアルな格好をしている人も増えた。

お堅い製造業であっても、Tシャツ、ジャケット、というスタイルの人も割といる。それくらいコロナ禍というのは働く人たちの価値観や雰囲気を変えたとも言える。

生きてるだけでも丸儲け、生きてるだけでも偉い、という世界を経て、日本もまた少しだけ働く人には優しくなったのかもしれない。

が、無能の鷹を観ていると、若手に対して満足な指導ができない、するとパワハラになる、という別のマネジメント層の悩みも見えてくる。

なんせ、職場でも「全ての若手が無能」というわけでもなく、割と放置していてもしっかりできる若手がいる一方で、放置していたらいつまでもホッチキス留めるくらいしかできない若手も生まれてしまっているわけで。

昨今のマネジメントの苦悩も想像できるが、それ以上に錯覚資産の面白さというのも見えてくる。

老け顔の若手社員が経験したことがある、隣の先輩よりも年上に誤解されてしまう、なんてことがある。逆パターンで若作りの年嵩社員が若手と勘違いされてしまうなんてこともあるのだが。

 

相手に錯覚されるというのは一つの能力である。

孫正義も「麗しい誤解のうちに事を進めよ」と過去に説いている。

 

主人公の鷹野さんは根拠の無い自信があり、常に堂々としているからこそ、相手から「この人、上司なんだろうな」とか「この人、仕事できそう」と思わせることができている。

この堂々としている、というのはビジネスの世界では非常に重要なファクター。

別にビジネスだけでない。様々な場面で自信を持って話す、というのは大変に重要。が、意外とその点は理解されていないことが多い。

仕事ができて、仕事の用語を正しく理解して説明できる方が良いに決まっているとみんな錯覚してる。が、この無能の鷹の第一話でも描かれているが、本当に重要なのは「仕事の話ができること」ではなく、「仕事で結果を出すこと」。

ビジネスを戦場に例えることは多いが、ビジネスは究極的には法律や倫理さえある程度守れていれば、契約を取るために何をしても良いと言えば良い。話が上手い人、可愛い人、場を和ませる人、それぞれに求められている役割を果たせるのであれば、それは立派に仕事をしているとも言える。つまり、鷹野さんは仕事に好影響を与えている限りにおいて、たとえどんなに頓珍漢なことを言っていても、会社にとって実質的な価値があるのです。

 

「キーマンとの間で親密な人間関係が構築できる」というのはある種の特殊能力。

 

世の中、これが出来ない人は本当にできない。そして、出来る人にも100人いれば100通りのアプローチがあり、完全な正解はありません。

 

「この人なら、何か意味があることを言っているはずだ」、と、相手にかなり高い確率で思わせられるというのは実際、かなり特殊な能力です。

人は心理的安全性が高くない状態では、相手から無能に思われたくない、という気持ちが働く。なので、「有能に見える人が話すことには何か意味があるはず」という錯覚、確証バイアスによって、類推してしまう。人は見た目に相当引きずられて物事を判断してしまうのです。

 

つまり、「キラキラした職場で働きたかった」という鷹野さんの浅ーい理想が生み出した虚像は相手に錯覚を生み出す立派な原動力になっているわけです。

初対面の印象で殆ど決まってしまうというのはまさにこういうことなんでしょう。

 

このドラマ、お気楽お仕事ドラマに見えて、なんとなく、本質的なことを語り掛けてくるので、目が離せません…。

私もまた、そんな無能な鷹野さんの魔力にやられてしまっているのかもしれません。

イチケイのカラス 劇場版 ★★★

イチケイのカラス 劇場版
少しネタバレします。悪しからず!




田舎の圧力とか空気みたいな話だと99.9とか沈黙のパレードとか元彼の遺言状の終盤とか映画ノイズとか最近こういう話が多い気もしますね。who done itモノとして推理展開が面白いからなのか、この手の話があまりに増えると展開が読みやすくなってくるのが少々悩ましいですが…

さて、田舎というのは閉鎖的な空間であり、そこでの人間関係が全てといえば全てです。そして、本作ではしっかりと描かれますが、閉鎖的な労働環境と企業、そして、地域の空気。主人公はまさかの家まで燃やされ、別の弁護士も殺されて、恐ろしい目に遭います。こちらの弁護士が死んだ事件が刑事事件として扱われなかった点や、裁判所での調査結果について根拠となる証拠や証言者を裁判で呼ばなかったのはちょっと違和感が半端無いなとは思いました。裁判所は証拠を提示しなくて良いのか?
あと、普段は人気がないだろう、田舎の神社の近くの階段で人が倒れて死んでたら事故と事件の両方疑いませんかね?田舎なら尚更。そこが事件化されなかったのもまた法廷モノとしては致命的かなと。

とはいえ、お話としては面白く観ました。

企業が工場撤退する描写が終盤描かれずにいきなり商店街のお店が次々と潰れる様が描かれましたが、そんなに一斉にみんな同じ日にやめちゃうもんかなあ。シャッター商店街はいろんなところにありますが、だんだん真綿で首を絞めるように店って潰れていくんじゃないかな。あまり映画的な表現かなと。
あと、裁判官の入間さんは「無くなってしまうならそこから始めるしかないんじゃないですか」とは言うものの、入間さんも坂間さんも結局はどこまでいっても、他所の人なんだなとも思いました。工場なんてそんなにポンポンもうできないんですよ、日本に。一度無くなったら雇用は回復しない。

ブルージャイアント ★★★★

ブルージャイアン
Amazonプライムで鑑賞。これは映画館の大音響で観たかったな。

とにかく音楽が圧巻。さすがの上原ひろみ。そして映画の音と絵の熱量が最初から最後まで凄まじい。セリフでいちいち説明しないのが素晴らしい。出す音から人の生き様とかが透けて見えてくるというのをまさに映像で表現している。これ、世界を股にかけている上原ひろみだからこその楽曲だと思うんですけどね。
サントラを聴きながらこの文書を書いています。
劇中の運指は完全にシンクしていて昨今の音楽アニメやスポーツアニメのクオリティの高さには恐れ入ります。(ex. SLUM DUNK)
これ、実際に漫画から脚本作ってそこから音楽を作り、その動きをキャプチャーしてアニメを合わせないと尺合わせとか含めてうまく作れないですよね。
なので、制作順序を考えると非常に音楽オリエンテッドな作品だったんじゃないかなと。サラッと観られてしまうけど、このクオリティを出すためには相当の時間とコストが掛かるのではないかなと。

で、記事を探してみたらやはり。サックスを実際に吹いている馬場氏のインタビュー記事はこちら。
https://www.shimamura.co.jp/happyjam/post/5958

いやはや、作中のその人になりきって演奏するとかその難しさを考えると、頭が下がる思いです。


青春のような青臭さもありながらも、映画タイトルの「ブルー」というのがそういう意味なのか、というのは映画の最後の方でわかる、という。

それにしても楽器は楽しいですよね。バンドも楽しい。楽しすぎて人生に影響を与えてしまうほどには楽しい。(先ほどのインタビュー記事でも馬場氏はまさにそんな感じで音楽にのめり込んでますよね)

自分も確実に音楽で人生に良くも悪くも影響を受けたことを思い出さざるを得ませんでした。

私が音楽に本格的に向き合ったのは中学から高校にかけて。クラシックギターを親戚の家から借りてきて教則本を見ながら弾いて弾き語りをしていたのだけど、折からのビジュアル系のバンドブームもあり自分でもエレキギターを弾いてみたくなり、お年玉をはたいてエレキギターを買って…そうこうしてる間に高校生になり高校ではバンドをやろうと思っていたのが、何を思ったか高校の吹奏楽部に入りホルンを成り行きで吹き始めてしまったのでした。
それが、楽しくて続けられたのは友達がたくさんできたからというのもあるのだけど、それと同じくらい音楽が、合奏が楽しかったからなんですよね。日々向き合うのは地味な基礎練習ばかりだったんですが、それでも県内ではそこそこの強豪校なわけで県代表にもなったりしていたので忙しかったんですよね。高校吹奏楽は受験との両立がつらくて胃潰瘍でやめそうになった時があるのですが、みんなから寄せ書きや手紙をもらったのを今でも覚えています。
そんな私がバンドを始めたのは大学の軽音楽部。そこで、必死にコピーバンドを掛け持ちでやり続け、歌い続けて楽しかったけど、留年して…でも、それ自体は親には申し訳なかったけどあまり後悔は無くて。吹奏楽もバンドも確実に自分が自分をコントロールしきれてない時があって。それは自分の意思が弱いからだとも思うのだけど、それ以上にそのかけがえの無い時間に自分はどうしても音楽に突き進みたかった。そんな気がします。なので、この映画では主人公の大やピアノの雪折ではなく、ドラムの玉田にずーっと注目してしまいました。

初心者でバンド組むのとかバンドに入るのって緊張するわけです。初心者だけで組むと話は違うんですけども。一方で少し経験者になると、初心者がバンドにいることが鬱陶しくもなるわけです。これは音楽やってると必ず抱く感情で、だからこそ、大のように考えられるのは素晴らしいなと。大もまた始めて3年だからこその意見なのかもしれません。

花束みたいな恋をした ★★★

花束みたいな恋をした
Netflixでフリーになっていたので鑑賞。
有村架純菅田将暉主演、脚本は坂本裕二、土井裕泰監督。

あらすじ

駅で終電を逃したことをきっかけに出会った麦と絹。お互いに音楽の好みや趣味が同じことを知り、すぐに恋に落ちる。大学を卒業してフリーターをしながら同棲生活をスタートさせ、日々変化する環境の中で日常を共有しながら大切に過ごしていた。この2人での生活を続けるために、就職活動に励んでいく。


以上あらすじ抜粋


自分がこの映画の前情報を入れていなかったこと、予告編のテイストと有村架純、という配役から映画としてはちょっと勘違いしていて、感動系のよくある悲恋モノかなあと思っていました。が、良い意味で序盤から気持ちよく裏切られました。
これは、「500日のサマー」や「ブルーバレンタインhttps://blog.goo.ne.jp/kikidiary/e/5243a2dc06c7aed178916d4a4c306050
の再来かなと思うのにそこまで時間はかかりませんでした。
結論は提示しておいて、その経緯を見せていく映画ですね。

ネタバレしていきます。ここから先はお気を付けを。


さて、まず、京王線沿線に馴染みが深くなった筆者からすると、明大前描写とかはなかなか楽しいですね。あー、このあたりかな?とか想像しながら観ることができました。調布駅まで歩くと2時間半もかかるぞ!とか。焼きそばパンの店は調布ではなく、千歳烏山にある、とか調べて楽しいですね。
大学前の駅、と言う雰囲気自体は似たようなマンモス関西私大に通っていたので雰囲気として共感するところがありました。

あと、様々なサブカル要素が2人を繋ぐものとして出てきます。サブカル界隈とか趣味が多様化してしまった現代においても一定程度こうした話が成り立つものなのだなあとは感じるところです。サブカルチャーに詳しい人やうるさい人、好きな人たちには刺さるところがたくさんあったのではないでしょうか。特に自分はこれが好きで…と様子を見ながら話し始めるというところですかね。誰しも経験がありそうです。

どうしても自分語りがしたくなるようなお話ですよね。

この映画を観ていると、麦くんと絹ちゃんの選択についてあれこれ思うことが出てくるわけです。

シビル・ウォー アメリカ最後の日 ★★★★★

シビル・ウォー アメリカ最後の日
新宿TOHOシネマズで鑑賞。

(以下、映画.comより抜粋)

エクス・マキナ」のアレックス・ガーランドが監督・脚本を手がけ、内戦の勃発により戦場と化した近未来のアメリカを舞台に、最前線を取材するジャーナリストたちを主人公に圧倒的没入感で描いたアクションスリラー。

連邦政府から19の州が離脱したアメリカでは、テキサス州カリフォルニア州の同盟からなる「西部勢力」と政府軍の間で内戦が勃発し、各地で激しい武力衝突が繰り広げられていた。就任3期目に突入した権威主義的な大統領は勝利が近いことをテレビ演説で力強く訴えるが、ワシントンD.C.の陥落は目前に迫っていた。戦場カメラマンのリーをはじめとする4人のジャーナリストは、14カ月にわたって一度も取材を受けていないという大統領に単独インタビューを行うべく、ニューヨークからホワイトハウスを目指して旅に出る。彼らは戦場と化した道を進むなかで、内戦の恐怖と狂気を目の当たりにしていく。

出演は「パワー・オブ・ザ・ドッグ」のキルステン・ダンスト、テレビドラマ「ナルコス」のワグネル・モウラ、「DUNE デューン 砂の惑星」のスティーブン・マッキンリー・ヘンダーソン、「プリシラ」のケイリー・スピーニー
(以上引用終わり)

面白い。
なぜ面白かったのか?端的に言えば、今後のアメリカの、世界の分断を暗示しているから、ということになるのだろうか。
アメリカの文官統制は割と見た感じうまくいっているため、実際にはこのような事態に至ることは無いのかもしれない。
合衆国陸海空軍以外に州兵などが存在する仕組み上、全くあり得ないとも言えないがよほどの分断が起こらない限りは劇中で描かれるようなことは起こらない、とは思う。
アメリカという国に少しでも住んでみて思うことではある。
彼らは建国のために、そして、南北戦争で文字通り国を分断をして戦ったわけだが、それと同じようなことが起こるか?というと、どうだろうか。
日本で、地域別に起こる分断を考えても、イデオロギーが違いすぎて、地域別に分断が起こる、というのは考えにくいというのが実際のところではなかろうか。物質的にもアメリカは豊かになったわけで。よく指摘されているが、現時点ではアメリカのイデオロギー的にはカリフォルニアとテキサスは相容れない。が、劇中では共闘している。こうした作劇は敢えてこうしているそうである。

勿論アメリカは選挙のたびに国を二分して民主党共和党が競うし、これまでは考えられなかったこと(議事堂襲撃事件とか)が起こったりもしてきたので、全く100%否定するのは難しくなってきている。(この議事堂襲撃事件やその他の事件でのトランプの責任が有耶無耶なまま、再び大統領選に出馬していたり、トランプが暗殺されかけたりとこれまた映画のような展開が現実にも続いている)
そんな、「もしも、アメリカが大きく分断したら?」という思考実験の映画ではあるが、あり得ないから面白く無いということは全く無く、今のところ、あまり起こり得ないと思われるけど、描かれているその現場というのは今、アメリカ以外の場所では起こっていること、起ころうとしていること、そのものなんですよね。
ガザ、イスラエルレバノンウクライナ、ロシア、その他様々な地域で。
そして、映画は別段、ミリタリー的に、ポリティカル的、思想的にそうした対立の何かを解決しようという話では全く無いのでそこは注意が必要で、あくまで、プレス、つまり、記者たちがそのあれこれを現場で見て知って記録していく、という形を取っている。

映画として観た時には絵的にドーンオブザデッド風味とか、どうしてもしてしまうのは仕方ないところなんでしょうけども。
高速道路のカットとか、時が止まった街とか、「お前はどのタイプのアメリカ人だ」、とか。(ドーンオブザデッドのTVシリーズなどはアポカリプスなアメリカをかなり描き切ってしまってて、後の作品は困ると思うんですよねえ…)、そこを差っ引いてもアメリカの分断というissueを映像でわかりやすくエンタメとして表現して見せたところは喝采を浴びても良いのだと思います。




ネタバレします。
ニュートラルな視点を維持しつつも、政府はプレスを殺し14ヶ月もインタビューには応じないというトンデモ振りで、最後の際まで大統領は無様に描かれているし、そういう意味ではニュートラルとは言えないかもしれない。かなりトランプに寄せて作られたキャラ造形です。
結局、主人公たちはWFという政府とは対立している西軍側で従軍記者をやるわけですし。
大統領の最後の一言を得られたらあとは死のうがどうなろうが、知ったことでは無いというのも含め。
どうしても、大統領やその側近たちの言動に共和党的な香りがしてしまったのもまた致し方ないことなんでしょうね、今のアメリカを思えば。
また、キルスティン・ダンスト演じるベテランカメラマンであるリーが撃たれるシーン以降も、取材は継続される様は何とも言えないところがある。
鑑賞後にピリリと痺れるケレン味があるのはこの辺りだろうか。従軍記者たちも歴史的なシーンを撮影しているという自覚があるからこその緊張感の継続なのだと思う。
この映画はジリジリと後半に向けて不穏さが増していくが、序盤のシークエンスで十分に不穏だ。この先にはデスしかないぞ、とサミーが警告する例のイヤなシーンと同じくらいやばい瞬間に遭遇しているが、事も無げに振る舞うリーとそれを見てヒリヒリして思わずカメラを向けてしまうジェシー。この最初のシークエンスから既にやばいわけですよ。リーは後少し、ジェシーを引き倒すのが遅れていれば自分が爆発を食らっていたわけで…。そんな間一髪が続くんですよね。結局。それは決して普通のことではないけれど、それにいちいち動じていたら、良い写真は撮れないわけですね。この皮肉。
ガソリンスタンドでの給油時に、ジェシーはカメラを向けることすら出来なかった瞬間がありましたが、そんな危機一髪なところでも、まさに動じないわけですね、リーは。

逆にリーはどうして、最後のシークエンスでホワイトハウス突入前までかなり腰が引けていたのか?は気になるところでした。正直、あそこまで激しい陸上戦闘に従軍するとなると、命の覚悟は必要でしょうし、もっと前から覚悟していたであろうリーがなかなか飛び出せないというのはきちんと、サムの死を受けて、きちんと写真を世に出したいと思っていたからなのかもしれません。ここは解釈が分かれますね…。

以下は監督のインタビュー記事ですがこうした記事を通して作品の描きたかった世界観がよく見えてきます。

https://www.cinra.net/article/202410-civilwar_iktay