1月某日、仕事をしていると妹から電話があった。が、取り損ねた。
電話に出られず、バタバタと家で仕事をしていると、後からメッセージがあり、救急車を呼んで父が入院することになった、という話だけ、端的にLINEメッセージが来ていた。
どういうことか、判然としないまま折り返すも妹は電話に出ず、そして、自分もまた用事があり、渋谷に出掛けることになった。メッセージのやり取りをしたり、電話をしているうちに、おおよそのことが理解できた。
・父の介護保険申請の相談を役場にしに行ったこと。
・そこから市役所のケアワーカー?ケースワーカー?が家に見に来て、非常に具合が悪そうな父を救急車で病院に運ぶことを提案したこと。
・ここ2日間ほどご飯を食べてなかったこと。
・今は精密検査をしていること。
最初話を聞いてるうちは命に関わるような話でもなさそうだったが、話が刻一刻と変化していき、父が肺気腫であり、全身のCO2濃度が非常に高い状態であり、楽観視できる状態ではないことがメールや電話で分かってきた。肺気腫は治るようなものではないこと。72歳だが89歳のような肺の状態であること。
仕事のために渋谷にいたが、ところどころで電話に出て話を聞き全体像がわかってきた。
チェーンスモーカーだった不摂生な父がこのようなことになるのは薄らとは予想していた。
私は子どものころ、ずーっと父がタバコを吸うたびにその副流煙を吸っていて、タバコは嫌になっていた。家の家具はヤニがついて黄色くなってしまったくらいにはチェーンスモーカーで、私は昔、それこそ2007年だか、2008年だかに実家の冷蔵庫を必死で激落くん(メラミンスポンジ)で拭いたことを思い出す。
肺の病気は辛い。父方の祖父は最後は肺ガンになり、片肺を切除した挙句、もう片肺の肺炎で亡くなったことを思い出す。息ができない、息がしづらい状態というのは極めて身体にはしんどく辛く苦しい。肺気腫も同様に苦しいのではないか。
今は酸素吸入をしているが、もしかすると、状態次第では喉からの挿管に変えるかもしれないこと、なども話があった。
果たして、年末の姿を見るに、父がここから快方に向かったりすることがあるのか、甚だ疑問はあった。
そもそも、健康診断や人間ドックにも行ってなさそうな父はセルフケア、セルフメンテナンスもできてなかったわけで、ここまで酷くなるまで放置してきたことからも、複雑な気持ちになる。
もはや、野となれ山となれということなのだろうか。年末に会った時に布団に入りながら訥々と言っていた「私はお前と妹を育てて大きくした、天寿を全うしたのだ」という父の言葉を思い出す。
父は意識不明だが、もしもの時に、挿管しますか、しませんか、の話が電話口であり、そんな年末の父の姿を思い返した。
切開してしまうと、話すこともできないと。
私は、冷たいようだが、そこまでして父は生きていたくはないのではないか、と話したが、父の兄や妹はそうは思っていなかったそうで、結局、もしもの時は気管切開して挿管する、ということになった。
電話したら父の兄は、医者には出来る限り手を尽くして欲しいと言っていた。一緒に住んでいる妹も同じ気持ちなのはそうだろう。
私は息子といえど、遠くに離れて住んでる人間であり、そこまで強く言える立場でもない。私は冷たい人間と思われているだろうし今後もことあるごとにこのことは言われるのかもしれない。
で、水曜日の夜だったのだが、金曜、土曜日、日曜と帰省することに決めた。
木曜にそうした段取りをしようとして出社したが、昼過ぎに妹から挿管することになった、よろしくない状態だ、という話があった。色々考えたら、あまり時間は変わらないが、やはりすぐ地元に戻ることにし、全ての木曜と金曜の予定をキャンセルした。
上司や同僚は心配なく、とは言ってくれるものの、残念ながらやることは山積みの状態であり、自分でなければできない領域の業務もあることから、そこは夜にでもどうにかするしかない。
帰宅して、荷造りして、スーツケースに着替えを詰め込んで家を出たら15時。新幹線に乗りこんだのが、16時前。新幹線はぐんぐん進むが静岡から愛知にかけてがひたすら長かった。仕事をすることもできたが、そんな気にもなれず、仕事のスマホをちらちら見るだけになった。
岡山に着いたのは19時過ぎだったか。そこから30分ほど待ち、観音寺までの特急に乗りこんだ。
久しぶりに乗る新幹線はどんどん進化していく一方で、久しぶりに乗る特急しおかぜは自由席は何も変わらずひたすらプラスチックが黄変を続けているような風情だ。電光表示だけが少し新しくなっているが、他は何もかもが、昔と変わらず古さを感じさせた。指定席は座席含めて新しくなっているが、この差はなんなんだろうな…
乗っている客たちが、本ではなくスマホを見続けているのが、昔との違いかもしれない。よくよく考えると、大学生以降、結構乗っていた新幹線やしおかぜだが、2014年あたりを最後に駐在していたからあんまり乗らなくなった。つまり、10年。10年は長い。駐在中は地元に帰る時も飛行機だったのだ。(帰省する理由で高松を目的地にすると、そこは会社から払ってもらえていたのが大きい)
地元の駅に着くと、妹が迎えにきてくれて無事ホテルにチェックインできた。ホテルは古いホテルでリノベーションしようとしている風情があったが、それは入り口の食堂だけで、部屋はそんなことはなく、ひたすらに古いビジネスホテルという風情。グランドホテルという名前なのだが、昔はこれでも「グランド」だったのだろうか。部屋のアラばかり目についてしまう。シャワーカーテンはカビてるし、浴室も微妙にカビが気になる。布団とベッドは綺麗だったからギリギリ寝られた。トイレも元々のトイレに無理やりシャワートイレを装着した感じで便座がたびたびズレる。
まあ、文句言っても仕方ないと言い聞かせつつ…
翌朝、近くのコンビニまでつらつら歩き朝ごはんを買ってきて食べてCESの報告会をzoomで視聴し、そして妹にピックアップしてもらい、まず、銀行関係の通帳の記帳などから始めた。なんせ、そのあたりの管理もどうにもこうにもな感じだったので。カフェにこもり、1.5時間ほど電気ガス水道やらお金の流れをまず把握して、生命保険関係を確認し、保険会社には電話して申請用紙を依頼、水道工事屋に確認を依頼、考えたくないが、念のため葬儀社に資料請求などなどやるべきことをテキパキとこなした。全てGoogleのformsに記載して、妹と共有した。文字を紙に書いてコピーするのでは二度手間になる。わたしの時間が限られている中ではこれしかない。
その後、金土と泊まる宿にチェックインしにいく。今回は金土の宿はあらかじめとってあった。なぜか、チェックイン自体は詫間町、宿泊は観音寺という変則的な方式で、チェックインする際に宿泊利用の注意事項の説明を受ける形だ。
で、宿泊先には行かずに、そのまま病院に向かった。ICUに入っているので面会時間が30分と非常に限られている。手指消毒をして、体温を測定し、記帳し、決められた時間に入っていく。妹は来るのが実質3日目だけにもはや、慣れている。
妹は父の着替えを引き取った。父は点滴の管やら酸素を送り込む管を付けられていて、話すことができない。管を外そうとしたそうで、やんわりとした拘束を受けている。(妹には事前に承諾の連絡があったそう)
父は意識を取り戻し、目が覚めており、わたしの手を握り、何かを伝えようとしているが、何かがわからない。これはかなりもどかしい。
指で何かを指し示しており最初は数字を示した後、あまりに必死なのでペンと紙を渡したところ、何かを書こうとする。しかし、紙を見られない中で文字を書くので解読が難しい。10分ほど何回ももどかしいやり取りをした後、117と書けて、これが日付なのだと理解した。そういえばそろそろ母の命日であった。(実際には1/18であった)
ことここに及んで、36年も前に亡くなった私たちの母の命日がなんだというのだ、という感じだが、墓や仏壇を参ってくれということなのか?というとそういうわけでもなさそうで、もう父は生きていたくないのかなとも思ったが、そんなやり取りをした。結局、真意を測ることは難しかった。
病院を後にして、実家に戻った。
正直、本当に気が乗らなかったが、言っても仕方がないので、祖父母の遺品やら父の部屋の掃除をすることに。申し出てくれたのは父の従姉妹。ありがたいことに一緒に頑張ってくれた。実際のところ、田舎の親戚は段々と、亡くなったりもしてる中で、妹があれこれと親戚のために動いたりしていたおかげと言われているが、父の従姉妹の皆様が助けてくれて実家の片付けを進めた。
とはいえ、祖父母の遺品の量がとてつもない。昭和40年頃から開封されていないだろう箱詰めになったお歳暮やお中元が山のように出てきてそれを箱を壊して分解して中身はリサイクルセンターに出し、箱も捨てる算段をつけて、祖父母のタンスの中身も確認して、全てをゴミ袋に入れた。
この作業、文書にするとあっさりしてて短いのだけど、箱の数も多く、背の高い上の段の押し入れに入っていて、しかも、住み着いた害獣の残した色々を掃除しながらと非常に大変で壮絶。
父もなんというところに寝てたのか…と絶句しながら、もはや、まともな生活は出来ていなかったということだったのだろう。
とはいえ、それでも、凄まじい量のゴミやらをまとめたり、と途方もない作業量。どういう暮らし方をしていたのか、絶句しながら、今後必要なものが殆ど無い中で不用品を積み上げていく。
親戚も必死になってやるが、キリが無い。平成末期の書類も多く出てきてそれをひたすらに開封しては分類し不用品をゴミ箱へ放り込んでいった。
とにかく、ゴミまとめと掃除を進める。
ひたすらゴミを捨てる中でふと思ったことがある。押し入れから出てきた三越の紙袋に入った大量のおしぼり。きっと何かの折に手に入り、何かがあった時に、と祖父か祖母が押し入れに入れたっきりになっていたのだろう。それはたぶん、3-40年以上は前の話だろう。それから、そんな何かの事態は起きず、その押し入れは誰にも顧みられることなく、そして今になり、私が開けて全て燃えるゴミの袋に私のため息と共に叩き込んだ。
その時に、「必要になる時が来るかもしれないから」と思った大正末期ないしは昭和初期生まれの祖父母の意思決定を責めても仕方がないのかもしれないが、その後、たっぷり15年くらいあったのに、それを整理することもなく、その押し入れをそのままにして、その周りに自分の好きな無線機やらを積み上げて引きこもっていた父に私は憤りを感じながら片付けを続けた。なぜ、何もしなかったのか。1ミリも祖父母の遺品整理が進んでいない。そして、結局、私がやっているではないか。
15年ほど前に一度実家を大掃除したことがあるが、その時から何も変わってない。結局、ろくに掃除もせずに暮らしていたことに暗澹とした気持ちになる。
私は15年前に、ひたすらその掃除で大変だったとき、家族が何もしないことを親戚に愚痴っていたが、その時に親族たちから、口々に「もう放っておきなよ、住んでない人がすることじゃない」と諭された。
それから、私は実家とやや距離を置いた。
もう、掃除に口出ししなくなり、好きにしたら、という態度に変えた。
しかし、結局、そのツケを今払わされているのは他ならぬ私だった。一体何だったのか。
通帳をすべて見ると、漠然とした不安は無くなった。
水道屋の件は結論から言えば手配した水道屋さんではなく、別のおじの知り合いの水道屋さんに後日、格安で修理してもらえた。値段が20倍も違い、絶句してしまった。安く済んでよかったのだが。結局水漏れの原因はわからず、代わりの配管を引いてもらうことになった。
庭木も伸び放題でもはや、元の形が思い出せないほどだった。邪魔な枝だけ、ノコギリで切り飛ばした。
家もかなりいたんでいる。
疲労困憊だが、食事をレストランでとり、三日三晩そんな暮らしをした後に一度東京に戻った。
私がいない間、妻はなんとかかんとか踏ん張って家族といつも通りの暮らしをしてくれた。
そして2週間ほどして、再度、父が治療方針に対して納得していないということで、困っていると言う相談が妹からきた。仕事の調整が即座にはつかず金曜日に帰省した。
金曜日の朝、高速バスから降りて、私は丸亀の寂れた商店街を歩き、市役所の近くのスタバに入り朝からテレカンで役員さんと会話した。そして、妹に迎えにきてもらい、食事をとり、病院へ向かった。
人は年齢問わず、老けるとだんだん、みんな似たような顔になるのだが、父の顔が祖父や祖母が入院していた時のように見えて、辛かった。
もう、これはたぶん、そんなに元気にはなれないだろうなと思わされる。管に繋がれていてなんともいえない気持ちになる。自分もまたいつか肺気腫かどうかはわからないが、こうなるのだ、と思うと暗澹とした気持ちになる。
生きると言ったって、こんな風になってしまったら一体何を楽しみにして生きれば良いのか。
いっそのこと、元気なうちに安楽死を選ぶのもまた、一つの選択肢にすら思える。父もまた治療を拒否していた時はそんな気持ちだったのではないか。
しかし、親戚や私の家族は治療を希望した。唯一、私だけが、そこまでして生きることに対する疑義を呈したのだが、そこは理解されなかった。
私が遠くで暮らしてるからなのだろうし、年末に父からそういう気持ちを聞かされていたからかもしれない。周りからすれば、私はきっと、薄情な息子に映っただろう。
2度目の帰省で治療を渋っていた父は自分の意思で治療を選択した。が、ここからはきっと大変だろう。遠くに住む私にはできることは限られている。地元に戻ってまでできることもまた限られている。金銭的にも時間的にも頻繁に帰省できるわけでもない。一緒に住んでいた妹に頑張ってもらう必要がある。
気管切開した後、父は病床で伝えたいことがあるということで耳を傾けたが、なんとかして口パクと身振り手振りで伝えてきたことは私を絶句させた。
それは年末にも言っていたことだった。
私の心は正直、サーっと醒めていくような気がした。
私には伝えたかった良いニュースもあったのだが、そんな話は聞いてなくて、もはや、私をそのようにしか見てないのかと悲しかった。今回の書類整理でも、私の手紙は取ってあるものが多かったが、別に未決書類と紛れて置いてあり、必ずしも大事に扱われているとは思えなかった。
隣で聞いていた私の妹もまた「それは兄に対して失礼だろう」と憤慨していたが、実際のところ、失礼というか、なんともいえない気持ちだった。
私は「申し訳ないが、それは無理だ」と父に伝えた。もしかすると、親不孝かもしれない。
病床にいて、必死にそれを伝える父に怒る気にもならなかった。私には妻もいて子どももいて、これからますます、子どもたちをしっかりと育てていかなければならない。それが自分のやりたかったことであり、やるべきことだと思っている。
その昔、母を早くに亡くし、痴呆症になってしまった祖母と長く暮らしヤングケアラーをやっていた私からすれば、いわゆる「普通の家庭」を築きたいというのが、私の昔からのやりたかったことであり、それが実現できなければ私は自分が生きている意味などないとも思っている。
「普通の家庭を持つのが難しいことなのだ」と昔、父は私に言ったことがある。
私もそう思う。子育てをしていて、子どもは自分の思ったようには動かないのだとよくわかる。
が、私からすれば、そんな困難に挑まなければ、一体、なんのために生きていると言うのか。
父は私をなんとか育てた。妹も育てた。子どもを持つ親として、願うのは子どもの幸せだ。それは確かに今となっては一定、理解できる。
だから、父が、私にそれを頼むのはわからないではない。
端的に言えば長いこと、仕事をしていない妹を助けてやってくれ、ということなのだが、それは精神的に、と言う話ではなく、経済的、金銭的にと言う話であった。
具体的な金額にまで言及したのは今回が初めてであったが、その金額は想像を1桁超えていた。そんなお金はどこにも転がってやしない。気軽にそんなお金を出せる人がいるなら、教えて欲しい。
兄妹が助け合う姿、というのは親が望むことだろう。だが、「度を超えた助け合い」ははっきり言えば、依存だ。そんなことをすれば、人は生きていく活力も気力も湧いてこない。冷たいのかもしれないが、私はそう考えている。聞けるお願いと聞けないお願いが世の中にはある。どうだろうか、昭和や大正、明治の時代であれば、また違ったのだろうか。フーテンの寅さんではないが、ふらっとやってきて泊まりにくるくらいなら、わかるが、血を分けた兄妹であろうと、妻でもなければ子でもない1人の人生をまるッと丸抱えなんて出来るわけがない。それを頼むのはいくらなんでも無責任だ。
私はうまくできるかわからないが、娘たちをなんとか経済的にも社会的にも人格的にも自立できる子たちに育てようと思う。
お父さんには到底理解してもらえないかもしれないが、それこそが、本当の意味での祖父母や父への恩返しだと思っている。