Sunoはじめました

(English follows)
ついにSuno AIに手を出してしまった…自分みたいに過去にDAW/DTMの手前のMIDIシーケンサーで曲作ってMTR宅録してた人からすると、このUIとお手軽さはマジで革命的。
寝かしつけとかアイロンかけながら曲ができてしまう。
これはすごい。いや、さすがに真剣にメロディから作るのはそんな簡単にはできないけども。
ちょっと大変だけど昔がっちりメロも曲としても完成させた曲はアップロードしてプロンプトを入れるだけで数分で曲ができている。あと、逆に全く何もなくてもプロンプトと歌詞だけでも曲は生成される…。(好きな曲になるかは別として。)
そして、歌詞を入れれば、歌までがっつり入ってる。いや、細かいところ、割と変だったりはするけども。(たまに英語読みになってたりする)
あと、メロディは希望通りに歌ってくれなかったりもする。でも、なんとか歌いきろうとする。それまたすごいんですが…。
歌と音源のレベルが十分に高いと殆ど細かいことは気にならないのか、ということに愕然とする。
このレベルでアウトプットできるようになるまでに人間ならば、何年掛かるのか?という熟達したプレイを聴かせてくれる。
アレンジもプロンプトをきっちり汲み取ってくれるので、どういう方向性を目指したいのかをうまく言葉で表現できる必要はある。できれば、英語が望ましい。細かく微修正するのはほぼ不可能ではあるけども。

これ、賛否あると思うんです。なので、そこにも触れます。
私の場合は音楽の中で1番ハマったのは作曲なんですよ。ギター、歌、ホルン、と色々やりましたけども。
寝食忘れて受験勉強もおざなりになるくらいになけなしのお年玉で買ったYAMAHA QY70でやってたんですね。

音楽を、曲を好きで色々やっててよかったなあとしみじみする。
中高大でやってた作曲活動って、本当にまあ「下手の横好き」というやつで、私は特に音楽理論とかろくに学ばずに打ち込みで作ってたんですよね。

大学の同級生や後輩、先輩からも一部の曲が失笑されてたのはまあ知ってますし、(まあ大阪だといじりますよねえ)自分にセンスやテクはお世辞にもあったとは思ってないんですが、このSunoは当時やりたくても技量も機材も追いついてなかった自分の頭の中では鳴ってたでっかい構想を見事に美しく彩ってくれるんですよね。
これはたまらん。いや、音楽としてどうなのか?というのは何度でも問われるべきとは思います。
が、もう、ほんとうに、本当に自分の独りよがりなのはわかってるんですが、昔一緒に作ってた仲間たちにも思わず、こんな風になったよ!って送ってしまうレベル…迷惑ですみません。
そして、昔作った曲を知らない人に聴いてもらっても、「あー、こんな曲ありそうだね」というレベルに「とりあえずいったん、引き上がる」と言う意味でもAIが凄まじい。
もちろん、いろんな曲の味付けにこだわる人にとっては、それもまた音楽の醍醐味で、その1番楽しいところをAIにやらせるなんて、というのもわかるんですよ。
朝日新聞のAIに関する記事でも小説家の方がそんなことを仰ってました。
日経新聞でも作曲家のYOSHIKIが同じようなことを言ってました。私もそれは否定しません。

積み重ねたいろんなテクニックで単なる鼻歌がどんどんかっこよくなる、というのはよーくわかってます。その積み重ねと繰り返しもまた楽しい。できなかったことができるようになるのが楽しいというね。
また人の歴史が音に現れるのだ、というYOSHIKIの言うことももっともだと思います。全く否定しません。
音楽を生業としている人たちからすればこれは真剣に危機的な事態であり、一方でAI音楽がチャートを賑わせている、というのもなんとも言えない感じではあります。人の歴史がきちんと滲み出すのがアートだ、というのもその通りだと思います。

自分の場合、17-8歳の頃の自分の頭の中で思い描いた曲が、43歳の自分とAIによって25年越しに、めっちゃかっこよくリファインされる、ってだけで本当にこんな楽しいことはない、というだけではあるんですけどね…。無邪気ですみません。私には家族との時間が大事なので、残念ながら半日、パソコンの前でDTMをやる時間は取れないのですが、このSunoでとても毎日が楽しいということを書いておきたかったのです。

I finally gave in and tried Suno AI—and honestly, for someone like me who used to write music on MIDI sequencers before full DAWs and record at home with an MTR, this UI and sheer ease of use feel nothing short of revolutionary.

I can literally make songs while putting my kids to bed or ironing clothes. That alone is wild.

Now, to be fair, creating a melody seriously from scratch still isn’t that easy. But if you already have a song you once fully completed—melody and structure included—you can just upload it, add a prompt, and within minutes you’ve got a finished track. Even more surprising: you can generate a song from nothing but a prompt and lyrics. Whether it turns into a song you actually like is another question, of course.

If you input lyrics, it even sings them—proper vocals and all. Sure, there are odd details here and there. Sometimes the pronunciation slips into English-style reading, or the melody doesn’t quite follow what you had in mind. But the AI still pushes through and somehow sings it to the end. That, in itself, is impressive.

What really shocked me was realizing this: once the overall level of the vocals and backing track is high enough, you stop caring about most of the small imperfections. You’re suddenly listening to a level of “proficient performance” that would take a human years—if not decades—to reach.

The arrangements also reflect the prompts surprisingly well. That said, you do need to clearly articulate what kind of direction you’re aiming for—preferably in English. Fine-grained adjustments are almost impossible, but that’s the trade-off.

Naturally, this is controversial, and I get that. So let me address it head-on.

For me, composing was always the part of music I fell deepest into. I played guitar, sang, messed around with horns—but composition was everything. Back when I was a teenager, I spent what little New Year’s money I had on a YAMAHA QY70, obsessively writing music to the point where my entrance exam studies suffered.

Looking back, I’m genuinely glad I spent my life loving music and songs that way. My composing from junior high through university was very much “enthusiasm over skill.” I barely studied music theory and relied almost entirely on programming notes by feel.

I know some of my classmates—juniors and seniors alike—laughed at a few of my tracks (well, that’s Osaka for you). I’ve never believed I had exceptional taste or technique. But what Suno does is something else entirely: it beautifully brings to life the huge musical ideas that were always playing in my head—ideas I could never fully realize back then due to limitations in skill and equipment.

That’s irresistible.

Is it musically “right”? That’s a question worth asking again and again. I won’t dodge it. Still, fully aware that this is self-indulgent, I’ve found myself sending these tracks to friends I used to make music with, saying, “Look what it’s become now!” Apologies if that’s annoying.

What’s more, when people who never knew my original songs listen to them now, their reaction is often, “Yeah, this sounds like a song that could exist.” Even reaching that baseline—to “temporarily make it onto the shelf,” so to speak—is an astonishing achievement by AI.

Of course, I also understand the opposing view. For people who obsess over nuance, texture, and sonic flavor, shaping those details is the joy of music. Handing that most enjoyable part over to AI feels wrong to them. I’ve read novelists expressing similar concerns in articles about AI, and composers like YOSHIKI have voiced comparable thoughts as well. I don’t disagree.

I fully understand the joy of stacking techniques until a simple hummed melody turns into something powerful. The repetition, the accumulation, the thrill of finally doing what you couldn’t before—that’s real. And yes, the idea that human history is embedded in sound is absolutely valid. I don’t deny that for a second.

For professionals who make their living through music, this is undeniably a serious crisis. At the same time, seeing AI-generated music climb the charts creates a strange, conflicted feeling. Art should reflect lived human history—that argument makes perfect sense.

But for me, personally, it’s simpler than all that.

A song that lived only in my head when I was 17 or 18 is now being refined—25 years later—by my 43-year-old self and an AI into something genuinely cool. That alone is unbelievably fun. I know it’s naïve, and I’m sorry for that.

Family time matters most to me now. I can’t spend half a day in front of a computer doing DTM anymore. But with Suno, music has become a daily source of joy again—and I just wanted to put that into words.

年末のこと

高速バスでバスタ新宿からひたすら12時間、丸亀駅に着いて妹が迎えにきてくれた。

車に乗り、ひたすら、父の兄の住む高松に向かう最近の話を聞く。

父の従姉妹であり、とても妹を助けてくれていたおばさんが高いところのものを取ろうとして椅子が倒れて足を着いたら骨が折れてしまった。おばさんは一人暮らしで息子たちは大阪に住んでるということで緊急連絡は妹にあったそうな。慌てて助けに行き病院へ行くと全治3ヶ月で入院することになってしまった。父も相変わらず夏に転院してからも地方で二番目に大きい病院で診てもらっており、一方でおばさんはそこから10kmくらいは離れてそうな病院に入院して手術をしてリハビリを続けている。

 

また、ふと、10月頃に隣の家に住んでいる同じ姓の同級生が亡くなった話も出てきて驚いた。体の強くない子で小学校も途中までは同じだったけど、途中からは養護学校に通っていたので、4年生5年生くらいまでしか一緒ではなかった。

その子がおそらくは心不全で倒れたそうで、お母さんが慌てているところに妹がたまたま気が付いて、助けに行って119番して救急車が来るまで心臓マッサージし続けたという。結果的には助からなかったという。いつから倒れていたかもわからなかったそうで、時間が経ち過ぎてしまったのかもしれない。

まさか、自分の妹がそんなこともすることになるとは予想外だったが、なんとも頼もしいやら、悲しいやらの話であった…。確かにそんな話はLINEでするような話でもなく、妹はとつとつとふつうに話すが、なんとも強烈な話だった。

 

そして、父の兄も肺がんになっていたということで癌の切除を行った。術後の経過は良好だが入院していたこともあり体力が減っており、まだ本調子ではないという。歩くにしても3000歩くらいが限界という。

そんなこんなで、話を聞いてたら高松に着いた。父の兄夫婦とお昼ご飯を食べ、コーヒーを飲み、最近のあれこれの話をして、その後は妹と父のお見舞いに向かった。

 

父は少しずつ良くはなっている。身体を起こして話をできるくらいにはなっていた。カヌーレも付けてある程度話はできていた。息が漏れるせいでうまく発声が出来てない時があったが、会話はできていた。めちゃくちゃたくさん話していた昔を思うと、言葉数は増やせないが、話すべきことを話していた。

 

今回の旅は年末だからというのもあったのだが、言っておかないといけないことがあったので、そんな話も少しした。

 

25年4月から私は一応、さらに昇格したのだが、その話をした時には父は結構アレな話をしてたのだが…

まあ、それはさておき、昇格すると色んなことが起こる。これからも起こるだろう。そんなことを少し話した。

 

父との面会は30分だけ。おまえ、何時間かかったんや?と聞かれて12時間やで、と答えると、ありがとうな、と父はぽつりと言った。

たまにしか来られないし、父や妹にとってはろくな話もできなくて、ほんとに申し訳ない。

 

その後は妹と焼肉食べてあれこれ話をして、投宿した。

 

戻る道すがらこの日記を書いてる。

 

 

よくよく考えると、今月は高校の吹奏楽部の同級生に久しぶりに会ったり、久しぶりに5年前に辞めた後輩と会ったり、そんな時間もちょくちょくあった。

同級生のYくんはO阪大学を出て創薬メーカーに勤める秀才なのだけだも、その後になんと博士号も社会人で取ってて驚いた。実家と離れて、でも家族を築き家を買い…と言う話を聞いた。AIが創薬に与える影響だったり、面白かった。

後輩も元気そうだった。あれこれと最近の皆様の話をした。

あと、N経のSさんとNPのGさんとも超絶久しぶりに対面でランチできた。貴重な時間だったと思う。5年ぶりかな?次は何年掛かるのかな…。それまで元気で生きていようとも思う。

 

 

そういえば先週は久しぶりにロードバイクで80kmほど、走った。

レインボーライドというお台場のイベント。これもまた楽しかった。

朝4時過ぎに起きて5時前に家を出て自走して現地に向かいました。24kmくらい。

6時半過ぎに到着。コンビニで朝ごはんを簡単に済ませて荷物を預けて8:30に出発。かなり出場者が多かった。

出走するとすぐにレインボーブリッジに到達。先導者が各グループにいて、なかなかの速度で走り抜けた。レインボーブリッジはめちゃめちゃ景色がよく気持ちよかった。その後にも色々走り周り、海の森公園だったり、ゲートブリッジだったりを周り、37-8kmのコース。

ゴールしたら素敵なメダルをもらえた。また、で、ハンバーガーを食べてから自走して24km帰宅した。というわけで合計80km以上走ったのだけど、まあ割と元気に帰ってこられた。帰宅したら13時半くらいと、なかなか健康的な朝活となった。

 

走ってる時に、集団で自転車乗りのよくやるハンドサインをみんなでやりながら、駆け抜けていくのが超気持ちよかった。思わず声が出た。なんだかんだで帰国して3年くらい1人で走ってたからだろうか、みんなで走るって本当に楽しいんだな、って痛感した。

 

健康で居続けることはとても難しいし、不断の努力が必要だが、心掛けたいと思う。

年始のこと。

 

1月某日、仕事をしていると妹から電話があった。が、取り損ねた。

電話に出られず、バタバタと家で仕事をしていると、後からメッセージがあり、救急車を呼んで父が入院することになった、という話だけ、端的にLINEメッセージが来ていた。

どういうことか、判然としないまま折り返すも妹は電話に出ず、そして、自分もまた用事があり、渋谷に出掛けることになった。メッセージのやり取りをしたり、電話をしているうちに、おおよそのことが理解できた。

 

・父の介護保険申請の相談を役場にしに行ったこと。

・そこから市役所のケアワーカー?ケースワーカー?が家に見に来て、非常に具合が悪そうな父を救急車で病院に運ぶことを提案したこと。

・ここ2日間ほどご飯を食べてなかったこと。

・今は精密検査をしていること。

 

最初話を聞いてるうちは命に関わるような話でもなさそうだったが、話が刻一刻と変化していき、父が肺気腫であり、全身のCO2濃度が非常に高い状態であり、楽観視できる状態ではないことがメールや電話で分かってきた。肺気腫は治るようなものではないこと。72歳だが89歳のような肺の状態であること。

仕事のために渋谷にいたが、ところどころで電話に出て話を聞き全体像がわかってきた。

チェーンスモーカーだった不摂生な父がこのようなことになるのは薄らとは予想していた。

私は子どものころ、ずーっと父がタバコを吸うたびにその副流煙を吸っていて、タバコは嫌になっていた。家の家具はヤニがついて黄色くなってしまったくらいにはチェーンスモーカーで、私は昔、それこそ2007年だか、2008年だかに実家の冷蔵庫を必死で激落くん(メラミンスポンジ)で拭いたことを思い出す。

肺の病気は辛い。父方の祖父は最後は肺ガンになり、片肺を切除した挙句、もう片肺の肺炎で亡くなったことを思い出す。息ができない、息がしづらい状態というのは極めて身体にはしんどく辛く苦しい。肺気腫も同様に苦しいのではないか。

 

今は酸素吸入をしているが、もしかすると、状態次第では喉からの挿管に変えるかもしれないこと、なども話があった。

果たして、年末の姿を見るに、父がここから快方に向かったりすることがあるのか、甚だ疑問はあった。

そもそも、健康診断や人間ドックにも行ってなさそうな父はセルフケア、セルフメンテナンスもできてなかったわけで、ここまで酷くなるまで放置してきたことからも、複雑な気持ちになる。

もはや、野となれ山となれということなのだろうか。年末に会った時に布団に入りながら訥々と言っていた「私はお前と妹を育てて大きくした、天寿を全うしたのだ」という父の言葉を思い出す。

 

父は意識不明だが、もしもの時に、挿管しますか、しませんか、の話が電話口であり、そんな年末の父の姿を思い返した。

切開してしまうと、話すこともできないと。

私は、冷たいようだが、そこまでして父は生きていたくはないのではないか、と話したが、父の兄や妹はそうは思っていなかったそうで、結局、もしもの時は気管切開して挿管する、ということになった。

 

電話したら父の兄は、医者には出来る限り手を尽くして欲しいと言っていた。一緒に住んでいる妹も同じ気持ちなのはそうだろう。

私は息子といえど、遠くに離れて住んでる人間であり、そこまで強く言える立場でもない。私は冷たい人間と思われているだろうし今後もことあるごとにこのことは言われるのかもしれない。

 

で、水曜日の夜だったのだが、金曜、土曜日、日曜と帰省することに決めた。

木曜にそうした段取りをしようとして出社したが、昼過ぎに妹から挿管することになった、よろしくない状態だ、という話があった。色々考えたら、あまり時間は変わらないが、やはりすぐ地元に戻ることにし、全ての木曜と金曜の予定をキャンセルした。

上司や同僚は心配なく、とは言ってくれるものの、残念ながらやることは山積みの状態であり、自分でなければできない領域の業務もあることから、そこは夜にでもどうにかするしかない。

帰宅して、荷造りして、スーツケースに着替えを詰め込んで家を出たら15時。新幹線に乗りこんだのが、16時前。新幹線はぐんぐん進むが静岡から愛知にかけてがひたすら長かった。仕事をすることもできたが、そんな気にもなれず、仕事のスマホをちらちら見るだけになった。

岡山に着いたのは19時過ぎだったか。そこから30分ほど待ち、観音寺までの特急に乗りこんだ。

久しぶりに乗る新幹線はどんどん進化していく一方で、久しぶりに乗る特急しおかぜは自由席は何も変わらずひたすらプラスチックが黄変を続けているような風情だ。電光表示だけが少し新しくなっているが、他は何もかもが、昔と変わらず古さを感じさせた。指定席は座席含めて新しくなっているが、この差はなんなんだろうな…

乗っている客たちが、本ではなくスマホを見続けているのが、昔との違いかもしれない。よくよく考えると、大学生以降、結構乗っていた新幹線やしおかぜだが、2014年あたりを最後に駐在していたからあんまり乗らなくなった。つまり、10年。10年は長い。駐在中は地元に帰る時も飛行機だったのだ。(帰省する理由で高松を目的地にすると、そこは会社から払ってもらえていたのが大きい)

 

地元の駅に着くと、妹が迎えにきてくれて無事ホテルにチェックインできた。ホテルは古いホテルでリノベーションしようとしている風情があったが、それは入り口の食堂だけで、部屋はそんなことはなく、ひたすらに古いビジネスホテルという風情。グランドホテルという名前なのだが、昔はこれでも「グランド」だったのだろうか。部屋のアラばかり目についてしまう。シャワーカーテンはカビてるし、浴室も微妙にカビが気になる。布団とベッドは綺麗だったからギリギリ寝られた。トイレも元々のトイレに無理やりシャワートイレを装着した感じで便座がたびたびズレる。

まあ、文句言っても仕方ないと言い聞かせつつ…

 

翌朝、近くのコンビニまでつらつら歩き朝ごはんを買ってきて食べてCESの報告会をzoomで視聴し、そして妹にピックアップしてもらい、まず、銀行関係の通帳の記帳などから始めた。なんせ、そのあたりの管理もどうにもこうにもな感じだったので。カフェにこもり、1.5時間ほど電気ガス水道やらお金の流れをまず把握して、生命保険関係を確認し、保険会社には電話して申請用紙を依頼、水道工事屋に確認を依頼、考えたくないが、念のため葬儀社に資料請求などなどやるべきことをテキパキとこなした。全てGoogleのformsに記載して、妹と共有した。文字を紙に書いてコピーするのでは二度手間になる。わたしの時間が限られている中ではこれしかない。

 

その後、金土と泊まる宿にチェックインしにいく。今回は金土の宿はあらかじめとってあった。なぜか、チェックイン自体は詫間町、宿泊は観音寺という変則的な方式で、チェックインする際に宿泊利用の注意事項の説明を受ける形だ。

で、宿泊先には行かずに、そのまま病院に向かった。ICUに入っているので面会時間が30分と非常に限られている。手指消毒をして、体温を測定し、記帳し、決められた時間に入っていく。妹は来るのが実質3日目だけにもはや、慣れている。

妹は父の着替えを引き取った。父は点滴の管やら酸素を送り込む管を付けられていて、話すことができない。管を外そうとしたそうで、やんわりとした拘束を受けている。(妹には事前に承諾の連絡があったそう)

父は意識を取り戻し、目が覚めており、わたしの手を握り、何かを伝えようとしているが、何かがわからない。これはかなりもどかしい。

指で何かを指し示しており最初は数字を示した後、あまりに必死なのでペンと紙を渡したところ、何かを書こうとする。しかし、紙を見られない中で文字を書くので解読が難しい。10分ほど何回ももどかしいやり取りをした後、117と書けて、これが日付なのだと理解した。そういえばそろそろ母の命日であった。(実際には1/18であった)

ことここに及んで、36年も前に亡くなった私たちの母の命日がなんだというのだ、という感じだが、墓や仏壇を参ってくれということなのか?というとそういうわけでもなさそうで、もう父は生きていたくないのかなとも思ったが、そんなやり取りをした。結局、真意を測ることは難しかった。

 

病院を後にして、実家に戻った。

正直、本当に気が乗らなかったが、言っても仕方がないので、祖父母の遺品やら父の部屋の掃除をすることに。申し出てくれたのは父の従姉妹。ありがたいことに一緒に頑張ってくれた。実際のところ、田舎の親戚は段々と、亡くなったりもしてる中で、妹があれこれと親戚のために動いたりしていたおかげと言われているが、父の従姉妹の皆様が助けてくれて実家の片付けを進めた。

 

とはいえ、祖父母の遺品の量がとてつもない。昭和40年頃から開封されていないだろう箱詰めになったお歳暮やお中元が山のように出てきてそれを箱を壊して分解して中身はリサイクルセンターに出し、箱も捨てる算段をつけて、祖父母のタンスの中身も確認して、全てをゴミ袋に入れた。

この作業、文書にするとあっさりしてて短いのだけど、箱の数も多く、背の高い上の段の押し入れに入っていて、しかも、住み着いた害獣の残した色々を掃除しながらと非常に大変で壮絶。

 

父もなんというところに寝てたのか…と絶句しながら、もはや、まともな生活は出来ていなかったということだったのだろう。

とはいえ、それでも、凄まじい量のゴミやらをまとめたり、と途方もない作業量。どういう暮らし方をしていたのか、絶句しながら、今後必要なものが殆ど無い中で不用品を積み上げていく。

親戚も必死になってやるが、キリが無い。平成末期の書類も多く出てきてそれをひたすらに開封しては分類し不用品をゴミ箱へ放り込んでいった。

 

とにかく、ゴミまとめと掃除を進める。

ひたすらゴミを捨てる中でふと思ったことがある。押し入れから出てきた三越の紙袋に入った大量のおしぼり。きっと何かの折に手に入り、何かがあった時に、と祖父か祖母が押し入れに入れたっきりになっていたのだろう。それはたぶん、3-40年以上は前の話だろう。それから、そんな何かの事態は起きず、その押し入れは誰にも顧みられることなく、そして今になり、私が開けて全て燃えるゴミの袋に私のため息と共に叩き込んだ。

 

その時に、「必要になる時が来るかもしれないから」と思った大正末期ないしは昭和初期生まれの祖父母の意思決定を責めても仕方がないのかもしれないが、その後、たっぷり15年くらいあったのに、それを整理することもなく、その押し入れをそのままにして、その周りに自分の好きな無線機やらを積み上げて引きこもっていた父に私は憤りを感じながら片付けを続けた。なぜ、何もしなかったのか。1ミリも祖父母の遺品整理が進んでいない。そして、結局、私がやっているではないか。

15年ほど前に一度実家を大掃除したことがあるが、その時から何も変わってない。結局、ろくに掃除もせずに暮らしていたことに暗澹とした気持ちになる。

私は15年前に、ひたすらその掃除で大変だったとき、家族が何もしないことを親戚に愚痴っていたが、その時に親族たちから、口々に「もう放っておきなよ、住んでない人がすることじゃない」と諭された。

 

それから、私は実家とやや距離を置いた。

もう、掃除に口出ししなくなり、好きにしたら、という態度に変えた。

 

しかし、結局、そのツケを今払わされているのは他ならぬ私だった。一体何だったのか。

 

 

通帳をすべて見ると、漠然とした不安は無くなった。

水道屋の件は結論から言えば手配した水道屋さんではなく、別のおじの知り合いの水道屋さんに後日、格安で修理してもらえた。値段が20倍も違い、絶句してしまった。安く済んでよかったのだが。結局水漏れの原因はわからず、代わりの配管を引いてもらうことになった。

 

庭木も伸び放題でもはや、元の形が思い出せないほどだった。邪魔な枝だけ、ノコギリで切り飛ばした。

 

家もかなりいたんでいる。

 

疲労困憊だが、食事をレストランでとり、三日三晩そんな暮らしをした後に一度東京に戻った。

私がいない間、妻はなんとかかんとか踏ん張って家族といつも通りの暮らしをしてくれた。

 

そして2週間ほどして、再度、父が治療方針に対して納得していないということで、困っていると言う相談が妹からきた。仕事の調整が即座にはつかず金曜日に帰省した。

 

金曜日の朝、高速バスから降りて、私は丸亀の寂れた商店街を歩き、市役所の近くのスタバに入り朝からテレカンで役員さんと会話した。そして、妹に迎えにきてもらい、食事をとり、病院へ向かった。

 

人は年齢問わず、老けるとだんだん、みんな似たような顔になるのだが、父の顔が祖父や祖母が入院していた時のように見えて、辛かった。

 

もう、これはたぶん、そんなに元気にはなれないだろうなと思わされる。管に繋がれていてなんともいえない気持ちになる。自分もまたいつか肺気腫かどうかはわからないが、こうなるのだ、と思うと暗澹とした気持ちになる。

 

生きると言ったって、こんな風になってしまったら一体何を楽しみにして生きれば良いのか。

 

いっそのこと、元気なうちに安楽死を選ぶのもまた、一つの選択肢にすら思える。父もまた治療を拒否していた時はそんな気持ちだったのではないか。

 

しかし、親戚や私の家族は治療を希望した。唯一、私だけが、そこまでして生きることに対する疑義を呈したのだが、そこは理解されなかった。

私が遠くで暮らしてるからなのだろうし、年末に父からそういう気持ちを聞かされていたからかもしれない。周りからすれば、私はきっと、薄情な息子に映っただろう。

 

2度目の帰省で治療を渋っていた父は自分の意思で治療を選択した。が、ここからはきっと大変だろう。遠くに住む私にはできることは限られている。地元に戻ってまでできることもまた限られている。金銭的にも時間的にも頻繁に帰省できるわけでもない。一緒に住んでいた妹に頑張ってもらう必要がある。

 

気管切開した後、父は病床で伝えたいことがあるということで耳を傾けたが、なんとかして口パクと身振り手振りで伝えてきたことは私を絶句させた。

それは年末にも言っていたことだった。

私の心は正直、サーっと醒めていくような気がした。

私には伝えたかった良いニュースもあったのだが、そんな話は聞いてなくて、もはや、私をそのようにしか見てないのかと悲しかった。今回の書類整理でも、私の手紙は取ってあるものが多かったが、別に未決書類と紛れて置いてあり、必ずしも大事に扱われているとは思えなかった。

 

隣で聞いていた私の妹もまた「それは兄に対して失礼だろう」と憤慨していたが、実際のところ、失礼というか、なんともいえない気持ちだった。

 

私は「申し訳ないが、それは無理だ」と父に伝えた。もしかすると、親不孝かもしれない。

 

病床にいて、必死にそれを伝える父に怒る気にもならなかった。私には妻もいて子どももいて、これからますます、子どもたちをしっかりと育てていかなければならない。それが自分のやりたかったことであり、やるべきことだと思っている。

その昔、母を早くに亡くし、痴呆症になってしまった祖母と長く暮らしヤングケアラーをやっていた私からすれば、いわゆる「普通の家庭」を築きたいというのが、私の昔からのやりたかったことであり、それが実現できなければ私は自分が生きている意味などないとも思っている。

 

「普通の家庭を持つのが難しいことなのだ」と昔、父は私に言ったことがある。

私もそう思う。子育てをしていて、子どもは自分の思ったようには動かないのだとよくわかる。

 

が、私からすれば、そんな困難に挑まなければ、一体、なんのために生きていると言うのか。

 

父は私をなんとか育てた。妹も育てた。子どもを持つ親として、願うのは子どもの幸せだ。それは確かに今となっては一定、理解できる。

だから、父が、私にそれを頼むのはわからないではない。

端的に言えば長いこと、仕事をしていない妹を助けてやってくれ、ということなのだが、それは精神的に、と言う話ではなく、経済的、金銭的にと言う話であった。

具体的な金額にまで言及したのは今回が初めてであったが、その金額は想像を1桁超えていた。そんなお金はどこにも転がってやしない。気軽にそんなお金を出せる人がいるなら、教えて欲しい。

 

兄妹が助け合う姿、というのは親が望むことだろう。だが、「度を超えた助け合い」ははっきり言えば、依存だ。そんなことをすれば、人は生きていく活力も気力も湧いてこない。冷たいのかもしれないが、私はそう考えている。聞けるお願いと聞けないお願いが世の中にはある。どうだろうか、昭和や大正、明治の時代であれば、また違ったのだろうか。フーテンの寅さんではないが、ふらっとやってきて泊まりにくるくらいなら、わかるが、血を分けた兄妹であろうと、妻でもなければ子でもない1人の人生をまるッと丸抱えなんて出来るわけがない。それを頼むのはいくらなんでも無責任だ。

 

私はうまくできるかわからないが、娘たちをなんとか経済的にも社会的にも人格的にも自立できる子たちに育てようと思う。

 

お父さんには到底理解してもらえないかもしれないが、それこそが、本当の意味での祖父母や父への恩返しだと思っている。

年末年始のこと。

 

この日記は数日前にラスベガスからの帰りの飛行機で書いたものです。

 

年末年始に地元香川県に帰省した。

ここ5年ほどは地元に帰省するとは言っても、自分の家に入っていなかった。やっとこさ帰省できた2022年、父親や妹は私たち家族が実家には泊まれないという話をした。とても悲しかったが、致し方ないと理解してきた。余裕が無いのだと言い聞かせてきた。住んでない人間にあれこれ注文をつける権利も無いと思ってきた。

しかし、自分が生まれ育った実家に帰れないのに、香川には帰省する、というのは少々つらい話で、結局、地元に帰り親戚と会い、父親と妹は食事をするに留め、ホテルで宿泊して東京に戻る、ということを繰り返してきた。

そんな状況でも、娘たちは自分たちの祖父や叔母に会えることを楽しみにしてくれていた。

今年の年末も2日だけだが、地元に帰ることにしていた。

しかし、結論から言えば私たちの娘たちは祖父に会うことはできなかった。

滞在2日目の夜に食事をするべく焼肉屋で待っていたが、妹から父がお風呂から出られないと連絡があった。妻と娘たちには待っててもらいながら、私だけ慌てて家に戻った。駐在やコロナの影響もあったから、5年ぶりの自分の実家だったが、すっかり荒れていた。庭木は生え放題で大変なことになっていた。部屋も長い間、掃除されてないことがはっきりわかった。

確かにこれでは、自分たちが泊まるのは難しい。

自分の実家はそういう感じ…というのはそれこそ、15年以上前、からわかっていた。掃除や片付けができないのだ。する気が無い。生活をきれいに保つ気が無い。誰も訪ねてこないから尚更だろう。人目を気にする必要が無いと人は掃除をしなくなる。家をきれいに保つのに、適度に人を呼ぶことは結構重要なことなのだ。そうした環境に長くいると、人の心は荒む。気力も湧かなくなる。それは留年した時の自分がそうなりそうだったからわかる。いかに酷い生活でも、どうでもよくなるのだ。

親戚も駆けつけてくれてなんとか風呂から助け出したが、風呂で寝ていたという。そして、体に踏ん張りが効かなくて、身体が浮かんでしまって風呂から出られなくなったと言う。すっかり痩せてしまった父。ヒゲも伸び放題で別人のようになっていた。これでは確かに食事には来られないだろう。そこで、なんとかタオルにくるまってもらって座敷まで運び、布団に寝かせた。すっと立てないほどに足が、お尻が痩せてしまっていた。なんとも、居た堪れない姿だ。寒くて震えてる、声も震えて歯がガチガチしていた。そして、弱気なことを言う。これは息子としてはなんとも言えないものだった。父親が元気な時には憎まれ口の一つも言っていたわけですが、そんなことを言う気も起きない。

私たちに会うためか、新しい服も買ってあったようでそれを急いで着せた。悲しいくらいに細くなっていた。父はあくまで私には虚勢を張りたかったのだとは思うのだが、もはやそんなことは言っていられるレベルではなくなったのだと思う。

 

部屋のにおいが祖母が寝たきりになっていた時に似ていた。そもそも、祖父母が寝床にしていたところを父も寝床にしていたわけだが、あまり良いことではないなあと感じていた。私はあの部屋にはあまり良い思い出が無い。祖父母が元気な時、つまり私が小さい時は私も一緒に寝泊まりしたこともある寝床だが、祖母が寝たきりになって自宅介護していた場所でもあり、祖父が肩が痛くて肩を揉んでくれと言われて小一時間も毎日揉んでいた場所でもある。はっきり言えば、良い思い出よりも辛い思い出が多い。

そんな父に掛ける言葉がなかなか難しい。父は「もう、後のことは頼んだ、お前の妻や娘たちには申し訳なかった」と言うのだが、人間はそんなに簡単に死ねないし、身体の調子が悪いままで生きる方が辛くて苦しい。出来る限りの間、健康なまま生きて生きて、生き抜いて力尽きて亡くなるのであればわかるが、無為な時間をただひたすら過ごして心貧しく生きて、死を予感しながら生きるのは果たして幸せと言えるだろうか。本人は腰が痛いとか足が痛いとか歩けないとか言うわけだが、一つ一つでもやれることをやって暮らしていくしか無いし、歩けるようになるためにできることをやるしかない。病気になれば、病院に行けば良いし、それだけの医療を受けられるだけの皆保険制度が日本にはある。が、本人にその気が無い。ただ、結局、その無為な時間の介護を妹がすることになる。

 

自宅介護は辛い。本人と介護者の両方の尊厳に関わる。疲弊する。共倒れになる可能性も高い。出来るなら介護者は近親でない方が良い。そして、介護保険制度も日本は充実している。介護認定は通常厳しい判定になるし、老人ホームの待ち時間は長いから、出来るだけ早めに申請するのに越したことはない。

 

年末年始になると、亡くなるお年寄りが増える、と言う話をよく見るが、お餅が一つの原因だと思っていたが、そのほかにも、お風呂に入り出た時のヒートショックが原因なのでは?という気がする。父も風呂の湯船に浸かった後、意識を失っていたようで、3時間もそのままだったという。うちの実家のお風呂には追い焚き機能や温度調整機能は無いのでひたすら冷たくなる湯船の中で寝ていたというのだ。危うく死ぬところだったのではないか、と思うと背筋が冷たくなる。

 

私にとって、父は常に頼りになる、大きな存在だった。私たち家族は母を早くに病気で亡くして父方の祖父母宅で暮らしてきたわけで、私の中では祖父もまた育ての親ではあるが、もちろん、父がいたからこそ、今の自分がある。人格形成に大きな影響があったと思う。

 

そんな父が苦しんでいるのだが、自分にできることがあまり無いことが苦しい。自分は遠くに暮らしているし自分の家族もあるし、妻を守り、娘たちを大きくしていく責任がある。ただ、それも言い訳なんじゃないか、という内なる声も出てきたりと、非常にもやもやする。このもやもやは日記に書けないようなことまで含めてずーっともやもやしている。

 

父は「わしはお前たちを育ててもうつとめを果たした(天寿を全うした)」といったことを言ったり、近所に住んでいた仲良くしていた友人が火事で亡くなったことによって気が滅入ってしまったという話をしきりにしていた。(これは実際にそういうことが昨年頭にあった)

私は、介護のことも考えなくてはならないのではないか?と切り出したが、父はそんなお金があるか!と言っていた。が、介護自体はそんなにお金がかからない。今後きちんと説得していかなくてはならないのだろう。いや、自分の息子からそんなことを言われたくはないのだとは思うけども。

 

妻と娘たちを迎えに行かなくてはならず、家を後にした。心苦しいながらも妹や親戚に頼るしかなかった。果たして、これからどうすべきなのか。再度、実家には戻り父を説得して手続きだけでもせねばならないだろう。まずはこまめに電話をしていくしかないのだろうか。

 

無能の鷹と錯覚資産

要約版

 

無能の鷹と錯覚資産

菜々緒主演のドラマ「無能の鷹」は、ナンセンスながら笑いを提供するお仕事ドラマ。観ながら思い出したのが『錯覚資産』に関連する本で、内容は「人生は運や実力ではなく、相手に『勘違いさせる力』で決まる」というもの。

ドラマの主人公鷹野さんは、仕事は全くできないものの、堂々とした態度や外見で「有能そう」と錯覚させる力を持っている。

 

コロナ禍以降、日本のビジネススタイルはカジュアル化したが、第一印象の重要性は依然として高い。鷹野さんは毎朝しっかりスーツを着こなし、スタイルの良さと根拠のない自信による堂々とした態度で社外の初対面の人たちを惹きつける。これが「錯覚資産」の力であり、相手に「この人は信頼できる」と思わせる能力は、ビジネスやその他の場面で非常に有効だ。

 

重要なのは、「仕事の話ができること」より「結果を出すこと」。鷹野さんのように、堂々とした態度で人間関係を構築し、相手を安心させる能力は一種の特殊スキルであり、会社に価値をもたらしている。

 

このドラマは表面的には軽いコメディだが、実は「見た目や態度が結果に影響を与える」というビジネスの本質を描いている。気軽に観られる一方で、深く考えさせられる内容だ。

 

以上AI要約

 

 

以下自分で書いた版

 

さて、今期のドラマで途中から見始めたのが菜々緒主演の無能の鷹。かなり面白い。毎回、思わず突っ込んでしまう。時に笑い疲れるくらい笑ってしまうのだが、これくらいナンセンスなお仕事ドラマもたまには一種の清涼剤だろう。

 

無能の鷹を観ていて思い出したのが錯覚資産に関する本だ。

 

人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている

 

この本のことを思い出した。

 

まあ、確かに無能の鷹の主人公である鷹野さんは驚くほど仕事ができない。ネットサーフィンはできるのにダブルクリックがわからない、とか、もはや、病気なんじゃない?とも思うし、英語が話せない設定なのだが、やたらと単語の発音だけが良いというのも解せない。発音から入るのは英語の基礎的学習において、非常に重要なのだ。たかのさんは本当は英語話せて然るべきなのだ。ホッチキスしか留めれないとか、エクセル操作できるようになったらAIが全部自動でできるようにしてくれるようになった!とか、最近の話題も挟んでくる。

 

毎朝しっかりバッチリメイク決めて、スーツを着こなし、スタイルは流石の9頭身。

ぱっと見、すごい仕事ができそう、と相手に思わせるというのは実はコロナ禍を経た日本で、いまだに結構重要でもある。

 

みんな、リモートワークを経験してから、日本でもビジネス環境におけるスーツスタイルにも変化が生じており、コロナ前比較でカジュアルな格好をしている人も増えた。

お堅い製造業であっても、Tシャツ、ジャケット、というスタイルの人も割といる。それくらいコロナ禍というのは働く人たちの価値観や雰囲気を変えたとも言える。

生きてるだけでも丸儲け、生きてるだけでも偉い、という世界を経て、日本もまた少しだけ働く人には優しくなったのかもしれない。

が、無能の鷹を観ていると、若手に対して満足な指導ができない、するとパワハラになる、という別のマネジメント層の悩みも見えてくる。

なんせ、職場でも「全ての若手が無能」というわけでもなく、割と放置していてもしっかりできる若手がいる一方で、放置していたらいつまでもホッチキス留めるくらいしかできない若手も生まれてしまっているわけで。

昨今のマネジメントの苦悩も想像できるが、それ以上に錯覚資産の面白さというのも見えてくる。

老け顔の若手社員が経験したことがある、隣の先輩よりも年上に誤解されてしまう、なんてことがある。逆パターンで若作りの年嵩社員が若手と勘違いされてしまうなんてこともあるのだが。

 

相手に錯覚されるというのは一つの能力である。

孫正義も「麗しい誤解のうちに事を進めよ」と過去に説いている。

 

主人公の鷹野さんは根拠の無い自信があり、常に堂々としているからこそ、相手から「この人、上司なんだろうな」とか「この人、仕事できそう」と思わせることができている。

この堂々としている、というのはビジネスの世界では非常に重要なファクター。

別にビジネスだけでない。様々な場面で自信を持って話す、というのは大変に重要。が、意外とその点は理解されていないことが多い。

仕事ができて、仕事の用語を正しく理解して説明できる方が良いに決まっているとみんな錯覚してる。が、この無能の鷹の第一話でも描かれているが、本当に重要なのは「仕事の話ができること」ではなく、「仕事で結果を出すこと」。

ビジネスを戦場に例えることは多いが、ビジネスは究極的には法律や倫理さえある程度守れていれば、契約を取るために何をしても良いと言えば良い。話が上手い人、可愛い人、場を和ませる人、それぞれに求められている役割を果たせるのであれば、それは立派に仕事をしているとも言える。つまり、鷹野さんは仕事に好影響を与えている限りにおいて、たとえどんなに頓珍漢なことを言っていても、会社にとって実質的な価値があるのです。

 

「キーマンとの間で親密な人間関係が構築できる」というのはある種の特殊能力。

 

世の中、これが出来ない人は本当にできない。そして、出来る人にも100人いれば100通りのアプローチがあり、完全な正解はありません。

 

「この人なら、何か意味があることを言っているはずだ」、と、相手にかなり高い確率で思わせられるというのは実際、かなり特殊な能力です。

人は心理的安全性が高くない状態では、相手から無能に思われたくない、という気持ちが働く。なので、「有能に見える人が話すことには何か意味があるはず」という錯覚、確証バイアスによって、類推してしまう。人は見た目に相当引きずられて物事を判断してしまうのです。

 

つまり、「キラキラした職場で働きたかった」という鷹野さんの浅ーい理想が生み出した虚像は相手に錯覚を生み出す立派な原動力になっているわけです。

初対面の印象で殆ど決まってしまうというのはまさにこういうことなんでしょう。

 

このドラマ、お気楽お仕事ドラマに見えて、なんとなく、本質的なことを語り掛けてくるので、目が離せません…。

私もまた、そんな無能な鷹野さんの魔力にやられてしまっているのかもしれません。

【書評】人生後半の戦略書

読了。簡単な書評を書いておきます。
本書は人生後半をこれから迎える方、すでに迎えた方、どちらにもオススメできます。キャリアの岐路に立っているような人におすすめできるような本かと思います。
特にバリバリ仕事をしてきた人、仕事に情熱を持って取り組んできた人は一読の価値があるのではないかなと思います。
簡潔に言えば、流動性知能を生かした仕事から、結晶性知能を活かした仕事に飛び移るタイミングがある、なぜなら、流動性知能曲線は30-40歳で衰えていくのに対して、結晶性知能曲線は60-70歳まで伸び続けるから、という話です。
バリバリ仕事をしてきた人もある時点でこれまでと同じようには出来なくなっていき、キレも落ちていくわけですが、それは別段普通のことで誰にでも訪れるものであり、恐れずに受け入れることが肝要といった内容でした。
死の意味もしっかりと受け入れた上で、仕事や人生に取り組んでいくのが良いのではないか、という内容でした。

 

最近とみにそういうことを考える事が増えました。例えば、自分の最近のパフォーマンスを考えた時にフルスロットルで考えてアウトプットし続ける事が難しくなってきました。また、夜遅くに仕事を出来なくなりました。一定の睡眠が無ければわかりやすくアウトプットの質が落ちるようになりました。

思考のキレも朝の方がよく、夜の方が悪くなっていきます。おそらく、この傾向はどんどん酷くなっていくのではないか、ということが感じられるようになってきました。

自分の体力であったり、思考力であったり、俊敏性であったり、瞬発力であったり、持続力であったり。これらを維持し続けるのは難しいこと、というのは考えれば当たり前なのですが、そうした老いを薄らと認めなければならないのは切ないなと。だから、それを受け入れられない人が多数いるのもわかるなあと。自分も含めて、フィジカル面での衰えを前提とした、生き方や立ち振る舞いやありかたの変革が必要だなと思わされました。

The Power Law 上巻

The Power Law 上巻

この本はVC(ベンチャーキャピタル)に関して詳しく歴史的経緯を記載した非常に示唆に富む書籍です。

電子書籍で読了。

よく聴いているポッドキャスト、repeat rhyme で熱烈におすすめされている本でした。原書しか無かったのですが、2023年の9月に翻訳版が 出版され、電子版を買いました。なかなか読了するまでに時間を要してしまいました。

上巻ではシリコンバレーと呼ばれる地域がそのように呼ばれるようになった経緯の背景、即ち、VCの発祥からGoogleの上場に至る経緯までが描かれます。

元上司が駐在時に言っていましたが、「シリコンバレーで最も重要な構成要素は設計(技術)と投資である」という話を今一度思い出すような書籍でした。

Power lawというのは「べき乗則」のことですが、まさに指数関数的に成長していく技術、そしてそれを展開し成長していく企業、そこに投資する投資家たちの話が様々なケースとして紹介されています。

日本にいると、なかなか馴染みの無い企業の初期の話などもあり、非常に面白く読めました。(GoogleやYahoo、IntelAmazonは個別に書籍も出ているわけなので…)

色んなケースに登場する投資家だったり、起業家たちの振る舞いや言動が興味深く、投資に対する姿勢も大変に参考になります。

それにしても、日本の典型的な製造業に勤めている自分一個人としてはなかなかに考えさせられる内容だなと思うわけです。

 

今、日本では1月から新NISAが始まり、書店ではNISA指南の本が多数出てたり、ウェブ記事でもたくさん投資に関する記事が出ています。このような記事では投資は自己責任、としつつも、投資に対する心理的ハードルを下げよう、という声掛けがなされています。日本では個人も企業もお金は貯蓄するのが一般的。しかし、恐ろしく低金利の時代が長らく続き銀行に預金していてもお金は増えない時代が長く続いています。一方で海外ではコロナ禍に資金がガバガバと市中に出回ったこともあり、インフレが続いてきたこともあり、インフレ抑制のために金利が上がりベンチャー投資環境としてはイマイチな状態になっています。(一方で、貯金に意味が出てくるわけですが)

日本でも貯蓄から投資へ、と言われ続けてきて、ようやくその兆しが見えてきたのかなとも思います。(会社でもESOP制度が導入され、株式をいくらか分配されたりもしています。10年ほど持株会にも入ってきたわけですが…)

新興企業に投資したり買収したりするCVCという仕組みも日本の製造業では増えてきていますが、必ずしもこうした仕組みが全ての企業に導入されているわけでもなく、製造業では、スタートアップ投資=リスク高いからやらない、よくわからないからまだやらない、と捉える向きも多いわけです。

一方で、研究開発投資などで新規市場分野に向けて技術獲得しようとしてたりする話を聞くと、これはもはや、自社内に新しいスタートアップを立ち上げるのとそう変わらない話をしていたりするわけです。

どちらが良いか悪いかというよりも、どちらもフェーズによってうまく戦略的に使い分けることが重要だなと感じる次第です。自社内で研究開発から始めると確実性はある一方で、時間は掛かるし、結局お金も掛かるし、ヒトも必要になるわけで。

 

面白いなと思うのは米国でも過去には投資に対して非常に慎重な人たちがいてそれは主に東海岸の伝統的な金融企業や事業会社の人たちだった、というところでしょうか。それに対するカウンターとして西海岸のVCや起業家たちが現れてくるわけです。投資に対する姿勢というか、リスクに対する姿勢の違いが明確で、それもまた面白いですね。

東海岸の伝統的な企業はいくら待っても投資してくれず、何回も何回もoh by the way〜と書類を要求された、という逸話が出てきます。このあたり、まるで日本の伝統的な大企業(JTC)と同じ振る舞いで、必ずしも、米国企業だからといって、みんながみんなリスクを取るというわけでもないということがわかります。

一方で、後半にエンジェル投資家の話が出てきますがこちらでは持分比率の話もせずにペラっと10万ドルの小切手をサラッと切る投資家の登場が描かれます。(7年駐在してて後半は殆ど小切手を使う機会も無かったわけですが…お金持ちになると、小切手で切る金額も桁違いですね。)

普通の人には大金でも、多くの上場によるexitで裕福になる人たちが生まれるシリコンバレーではエンジェル投資家になるような財を形成する人が相当数いる、ということなんでしょうね。数十億円とか資産があれば、そんなことも可能なんでしょうかね…。