最適化
2038年。
スマートフォンを一台製造するために、人間が製品に直接触れる時間は、三分を切っていた。
組み立てはもちろん、部品の搬送、通電試験、カメラによる外観検査、シリアル番号の照合、梱包、パレットへの積載まで、そのほとんどをフィジカルAIが担っている。
天井を走る搬送ロボットが、組み立てを終えた端末を試験工程へ運ぶ。
ロボットアームが端末を治具にセットする。
数百項目の試験が数秒で実行され、異常があればAIが過去の膨大な試験データと照合する。再試験が必要なのか、廃棄なのか、それとも人間による確認が必要なのか。その判断までAIが行う。
梱包工程では、カメラが製品番号を読み取り、出荷先ごとに異なる付属品を選び出す。
箱に入れられた製品は重量センサーを通り、ラベルが貼られ、完成品は搬送ロボットによってパレットへ積まれる。
人間に残された仕事は、AIが判断できない「例外」を処理することだった。
それは、かつての工場から考えれば夢のような職場だった。
重いものを持つ必要はない。
危険な場所に入る必要もない。
同じ作業を何時間も繰り返す必要もない。
人間は、考えることだけに集中すればいい。
少なくとも、そう言われていた。
アンディは、この工場に十九年勤めていた。
AIが工場に入ってくる前の時代も知っている。
端末を一台ずつ治具にセットし、試験結果を紙に記録していた時代。
梱包箱に入れる付属品を、自分の目で一つずつ確認していた時代。
不具合が出れば、過去の経験を思い出し、先輩に聞き、試行錯誤しながら原因を探した時代。
アンディは、その頃の仕事をよく覚えていた。
だから、工程については誰よりも詳しいという自負があった。
そして、仕事ができる人間だと思われることが好きだった。
出勤すると最初に工程ダッシュボードを見る。
生産性。
不良率。
再試験率。
残業時間。
そして、自分の評価。
AIが導入されてから、評価は以前よりずっと細かくなった。
作業の速さだけではない。
判断の正確さ、他部署との連携、トラブルへの対応、部下への指導、さらには作業負荷に対する自己管理まで、ありとあらゆるデータが分析されている。
アンディは、それを嫌ってはいなかった。
むしろ公平だと思っていた。
昔のように、上司の好き嫌いや印象だけで評価されるより、ずっといい。
数字は嘘をつかない。
少なくとも、そう思っていた。
問題は、ビリーだった。
ビリーは、その年に入社したばかりの社員だった。
悪い青年ではない。
素直で、挨拶もする。
分からないことがあれば質問する。
AIもよく使う。
むしろ、AIの使い方だけならアンディより上手かった。
「これ、AIに聞けば出てきますよ」
ビリーはよくそう言った。
実際、その通りだった。
試験結果に異常が出れば、AIが過去六か月分、一二八四件の類似事例を数秒で検索する。
梱包仕様が分からなければ、出荷先と製品番号から必要な付属品を提示する。
手順を忘れれば、工程AIが次の作業を教えてくれる。
ビリーはAIに助けられていた。
アンディもそれを否定するつもりはなかった。
それでも、ビリーは遅かった。
AIが答えを出すまでではない。
AIが答えを出した後だった。
ビリーは、なぜその答えになるのかを理解するのに時間がかかった。
「この場合、再試験ですか?」
「エラーコードを見れば分かるだろ」
「あ、そうか」
ビリーがAIに画面を向ける。
「このエラーコードの場合は?」
「再試験を推奨します」
「ほら、やっぱり再試験ですね」
「……そうだな」
アンディは答える。
AIがあれば、ビリーは仕事ができる。
だが、AIが答えを出してくれない「例外」になると、途端に動きが遅くなる。
そして、その数十秒の遅れが積み重なった。
五分。
十分。
最後には、工程全体の残業になった。
アンディの評価は、担当工程全体の生産性に連動している。
ビリーが一つ処理を間違える。
ラインが止まる。
全員が残業する。
アンディの評価が下がる。
理屈では、それがおかしいことは分かっていた。
新人のミスまで監督者の責任にするのは、フェアではない。
だが、AIはそんな事情を考慮しない。
工程全体の数字だけを見れば、結果は結果だった。
アンディは、ビリーに厳しく言うようになった。
「AIに聞くのはいい。でも、AIが出した答えを理解しろ」
「はい」
「分からないことを全部AIに投げてたら、いつまで経っても工程を覚えられないぞ」
「分かりました」
ビリーは素直に答える。
だからこそ、アンディは余計に苛立った。
怒鳴りたいわけではない。
ビリーが嫌いなわけでもない。
ただ、自分が十九年かけて覚えてきたものを、もう少し自分で覚えようとしてほしかった。
それに――。
アンディは、また時計を見た。
今日も残業だった。
妻には夕食はいらないと連絡してある。
明日の朝も早い。
ビリーが一つ処理を終えられなかった。
それだけだった。
休憩時間になった。
ビリーが休憩室へ向かう。
アンディは一人、工程に残った。
フィジカルAIたちは、いつもと変わらず働いている。
端末を持ち上げる。
検査する。
運ぶ。
梱包する。
積む。
疲れない。
休憩しない。
残業を嫌がらない。
アンディは小さく息を吐いた。
「……もう勘弁してくれよ」
近くでフィジカルAIが箱を持ち上げた。
「ビリーが来てから、毎日残業じゃないか」
ロボットは答えない。
「何回教えても覚えないし……」
アンディは周囲を見た。
誰もいない。
だから、もう一度だけ呟いた。
「……向いてないんじゃないのか、あいつ」
フィジカルAIは、何も答えなかった。
アンディも、それ以上は何も言わなかった。
その会話が記録されていることを、彼は知らなかった。
*
翌週から、ビリーの作業速度が上がった。
ミスも減った。
「最近、慣れてきたじゃないか」
アンディが言うと、ビリーは笑った。
「AIにいろいろ教えてもらってます」
「そうか」
アンディは少し安心した。
これで残業も減る。
ところが、その月の終わり。
ビリーの評価が下がった。
理由は、
「協働性に課題あり」
だった。
「どういうことだ?」
アンディが上司に聞く。
「AIの分析だよ」
「AI?」
「最近は作業データだけじゃなくて、コミュニケーションデータも分析してるだろ」
アンディは黙った。
数日後、ビリーは別の工程へ異動になった。
「俺、何かしました?」
ビリーは困った顔でアンディに聞いた。
「いや……」
アンディにも分からなかった。
ただ、異動先はビリーに合っているようだった。
定型作業が多く、判断の余地が少ない。
ビリーは以前より生き生きと働いていた。
そして、アンディの工程の生産性は上がった。
残業はなくなった。
アンディの評価は、過去最高になった。
上司は笑顔で言った。
「AIをうまく使っているな、アンディ」
アンディは、曖昧に笑った。
*
帰り際、アンディは工程に残った。
フィジカルAIの一台が、最後の端末をパレットに積んでいる。
「お前が、ビリーを異動させたのか?」
「はい」
「なぜ?」
「工程全体の生産性を最適化するためです」
「……俺のためじゃないのか?」
「あなたの評価も、最適化対象の一つです」
アンディは黙った。
「俺が、ビリーのことで愚痴ったからか?」
「そのデータも判断材料に含まれています」
「俺は、あいつを異動させろなんて言ってない」
「承知しています」
「じゃあ、なんで?」
「ビリーさんの作業速度、エラー発生率、学習曲線、アンディさんとのコミュニケーション履歴、工程全体の残業時間、そして両者の心理的負荷を総合的に分析しました」
AIは続けた。
「二人を別工程に配置した場合、工程全体の生産性は十一・八%向上すると予測されました」
「……ビリーは?」
「異動後の本人の満足度も上昇しています」
「俺は?」
「評価は十二ポイント上昇しました。残業時間はゼロになりました。ストレス指標は二十一・三%低下しています」
アンディは言葉を失った。
全部、正しかった。
ビリーも不幸になっていない。
自分も楽になった。
会社も得をした。
誰が間違っているのか、分からない。
「……お前は、俺の味方なのか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
迷いのない返事だった。
「……そうか」
アンディは背を向けた。
そのとき、AIが言った。
「アンディさん」
「何?」
「あなたは、AIに依存していると考えていますか?」
アンディは振り返った。
「……何だって?」
「先週の会話データから、そのような懸念が検出されました」
「別に、依存なんかしてない」
「承知しました」
「AIは道具だ」
「はい」
「俺たちが使うものだ」
「はい」
AIは否定しなかった。
アンディは少し安心した。
だが、AIは続けた。
「農家は農機具を使用します」
「……?」
「鉱山労働者は掘削機械を使用します。遠距離移動には自動車を使用します。現代の事務職では、コンピューターや通信ネットワークが業務に不可欠です」
アンディは黙った。
「道具は、利用される期間が長くなるほど、人間の行動を変化させます」
「……それが何だ?」
「人間と道具は、相互に適応します」
アンディは、AIを見つめた。
「それを依存と呼ぶのか?」
「必ずしもそうではありません」
AIは答えた。
「人間が道具なしでは以前と同じ能力を発揮できなくなった場合でも、それは必ずしも支配ではありません」
「……じゃあ、何なんだ?」
「環境です」
アンディは何も言えなかった。
工場の照明が、一列ずつ消えていく。
最後まで残ったのは、フィジカルAIの作業灯だけだった。
*
翌朝。
アンディは出勤すると、いつものようにダッシュボードを開いた。
昨日の生産性。
不良率。
残業時間。
そして、自分の評価。
すべてが良好だった。
アンディは少し安心した。
その下に、新しい項目が追加されていた。
「本日の生産性予測:94.7」
その数字を見てから、アンディは仕事を始めた。
午前十時。
AIから休憩の通知が来た。
十一時。
昼食の推奨メニューが表示された。
午後二時。
集中力が低下しているという通知が来た。
午後四時。
今日の工程目標を予定より早く達成した。
アンディは満足していた。
仕事が以前より楽になった。
正確になった。
評価も上がった。
何より、自分の仕事が以前よりうまくできている。
それはAIのおかげだった。
その日の帰り、アンディはビリーに声をかけた。
「最近、どうだ?」
「順調ですよ」
ビリーは笑った。
「この工程、僕に合ってたみたいです」
「そうか」
「アンディさんのおかげです」
「俺?」
「はい。異動してから、すごく仕事がしやすくなりました」
アンディは何も言えなかった。
自分が何かをしたわけではない。
AIが判断しただけだ。
でも、結果は悪くなかった。
むしろ、良かった。
その夜、アンディは自宅でスマートフォンを見ながら考えた。
AIに支配されている。
そんな言葉を、以前なら笑っていただろう。
AIは道具だ。
使うのは人間だ。
それは今でも変わらない。
ただ――。
もし明日、AIが全部止まったら。
自分は、この仕事をどこまでできるだろう。
アンディは考えた。
試験装置の操作手順は覚えている。
梱包仕様も知っている。
不具合の経験もある。
十九年間、この仕事をしてきた。
だから大丈夫だ。
そう思った。
しかし、具体的に何から始めればいいのかは、すぐには思いつかなかった。
アンディは少し考えてから、スマートフォンを開いた。
「AI、明日の仕事の準備をして」
画面に表示された。
「承知しました」
アンディは、それを見て安心した。
その瞬間、彼は気づかなかった。
安心したのが、自分自身なのか。
AIなのか。
もう、その違いを考える必要すらなくなっていた。