突き付けられた答え(昔の記事の再掲)

昔、転職を決断した夜に書いた日記より。今読んでも当時の自分の心の動きがよくわかる。この頃の私に笑われないように頑張らなきゃなあ。

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否応なく、突き付けられた答。多分、きっとずっと前から答は出ていたのだろう。それを受けて、自分がどうするべきかの答も出ていたつもりだった。仕事や会社やビジネスは合理的に進めることの可否が成功要因だと理解しているが、人間関係の問題は時に合理的な答を最善の策だとはしない。合理的に考えれば、きっと答は一つ、迷う理由すら見つからない。だが、私自身が合理性だけで人生の選択を行うことに対して危惧を抱いている。何が起こるかわからない引き金に、もう指がかかっている。今まで撃とうと考えもしなかった楔の一撃を撃つ弾を込めて、狙いも定まっている。標的は確かだ。後は引き金を引くだけ。

人生というのは時に大きな分岐点が現れる。最初は小さな選択肢だが、徐々に選択の分岐は絶望的なほどに二つを分かつ。あのときこうしていれば、という逡巡は存在したかもしれない別の次元の地平にいる自分を否応なく突き付ける。その別次元の存在しない自分についての感覚を否定的なものから肯定的なものに変換していくのはものすごく手間のかかることだ。過去の自己の選択を肯定することによってのみ、存在を許すことが出来る今の自分。逆にむやみやたらな自己否定や自己嫌悪は新たなストレスを生み出してしまうだろう。
人生はAかBかという小さな選択の連続だ。決めるのは自分自身。責任も自分自身が負えばいい。

人生は選択の連続。あのとき目先の眠さを優先しなければ母の死に目に遭えたかもしれない。あのとき運動部を続けることを選択していれば魅力的な希有な友人二人とは出会わなかっただろう。あのとき吹奏楽部を辞めていれば今のかけがえのない仲間を得ることは出来なかっただろうし、性格も全く違う人間になっていただろう。あのとき軽音に入らずに叔父が紹介してくれた弁護士に師事していれば確実に違う人生を歩んだことだろう。あのとききちんと講義に出ていれば留年はしなかっただろう。あのときもっとしっかり就職活動を続ければまた違う人生を歩んでいただろう。あのときあの選択をしなければこの日記を読んでくれているあなたにであうこともなかっただろう。

時間が経ち、自分の人生が続いていけばいくほどに、こういった「もしもあのときああしていれば」は増えていく。

それをずっと気に病むことはナンセンスであるし、時間の無駄だ。

それにたとえ過去の自分の選択が失敗に感じたとしても、それは過去の自分自身が選択したことなのだから周りの責任にしていては自分の成長の阻害となるだろう。自分の人生に真摯に真正面から向き合う人間の方にだけ幸運の女神は向いてくれる。更に一歩進んで女神に微笑んでもらえる人間には、人生と真正面から向き合った上で不断の努力を惜しまないことが求められる。努力したからといって、報われるわけではない。努力することが成功の糸口を掴むための遠回りなようでいて1番の近道なのだと思う。向き合うことから逃げ回っていても惨めったらしく、生きていくことはできる。愚痴や悪態をつきながらも、けだるい虚脱感と共に道を歩いていくのだろう。ひょっとしたらそれを不幸とは感じないかもしれない。不幸とは呼ばないかもしれない。無難な生き方と言い換えることも可能かもしれない。



私はこの答を掴むために、いや、この答にぶつかるためにここまで、こそこそといろいろやってきた。自分と向き合う作業は実に骨が折れたが、私は元来、根暗なので自分と向き合うのは嫌いじゃない。それよりもむしろ、これからこの決断を元に行動することが、どういう結果を生むのかをわかっているだけにいい気分はしない。私が私の人生に我が儘なために、周りの人たちをこれからも私は必ず傷つけるだろう。軋轢も生むだろうし、中には非常に残念ながら私との関係を断つ人間もいるだろう。不幸なことだがそれは避けられはしないだろう。私は揺るがない信念で何事にも向かえる人間では決して、ない。私が決める一連の事で得する人間は「私を含めて」誰もいないかもしれない。ひょっとしたら幸せな瞬間は訪れないかもしれない。毎日が辛く悲しい日々になるかもしれない。あまつさえ私の周りにまで不幸を招くかもしれない。だけどそれもあくまで、仮定の話だ。確かに自分の選択を応援する人間ばかりではないだろう。不安や不服を口にする人間も多いだろう。私を呪う人間もいるかもしれない。恨む人もいるだろう。私もきっと深く深く傷つくだろう。だからといって、それが
私の人生において大事な何かにきちんと繋がると誰がわかるだろうか。わかりはしまい。否定的な発想は自己保身が根本にある。現状維持することがなによりストレスを生まない。それは停滞に変わりない。
一度選択してしまえば、あとはやり抜くだけなのだ。何も恐れることはない。私は私の少ない人生経験が指し示す方向に向かって突き進むだけだ。私にとっては後退は有り得ない選択だ。

もう十分に考えた。これからも悩み続けるだろう。大事なことは思考を止めずに、行動していくことだ。
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社会人生活