自我の志向性と拡張性について


ある会話の中のやり取りを受けての答えのない自問自答なので、お時間のある方だけどうぞ。

「あなたはどういうことがやりたいの?」という根源的な問いに考えさせられてる。

自分のことをしっかりと分析できてるつもりだったけど、確かに私はBtoBの材料営業しか経験した事がないわけで、違うキャリア積んでいくのなら多分方向転換のチャンスとしては大きな転換点なんだよね、年齢的に。

その問いかけの中で、私がこういう事をやる時やりがい感じるかも、って話をしてると心理学的類型の話になった。

気になったので調べてみた。エニアグラムのことを言ってたのね。以下、wikiから引用。

「(前略)性格論としてのエニアグラムは俗に占いと比較されるが、エニアグラムを使った性格分析ではパーソナリティの核になる部分にスポットを当て、自己認識と他者の多様性受容のためのツールとして使われることが多い。9分類のカテゴリは、ステレオタイプとして捉えるというより、傾向を知る指針として利用するのが一般的である。
スタンフォード大学MBAにおいては、リーダーシップの授業で利用されているという。日本においても、コーチングの研修などで活用されている。

(中略)

性格の主な九分類法

リソによる分類法:

1.批評家:職人。完全主義者。鑑識力が高い。神経質。融通が利かない。

2.援助者:人助け。細かい気遣い。八方美人。人を操作したがる。

3.遂行者:成功。計画実行。行動的。人を駒のように扱う。

4.芸術家:天才。孤高の志士。一番病。ナルシスト。

5.観察者:博士。分析屋。内向的。皮肉屋。有益性を重んじる。

6.忠実家:安全第一。石橋を叩いて壊す。新しい物事への拒絶。

7.情熱家:楽天家。好奇心旺盛。自由人。飽きっぽい。

8.挑戦者:唯我独尊。理想主義者。自信家。他人に操られるのを嫌う。

9.調停者:平和主義者。器用な経営者。葛藤を嫌う。逃避。怠慢。

http://ja.m.wikipedia.org/wiki/エニアグラム


私は7番の情熱家、ではないか?という話をされてふむふむ、と他の要素もみてみたくなったので、調べてみた。会話の中で即座にこういう話題が飛び出すのも流石だな、と思うのですが(お恥ずかしながら、私はこれを全部を常には覚えられないだろうし(^^;;)。

なぜ、自分がTwitterで延々と情報をピックアップし続け、Web上での情報発信受信をし続けてるのか、映画ブログを続けてるのか、という行為の動機に対する根源的な問いかけだったし、自分のやってる仕事との乖離も指摘されたので、思わず考え込んでしまった。「営業って何が楽しいの?」って。

私は自分が興味のあることには人一倍のパワーを発揮するのに、興味を失うとその時点でパワーを注げなくなる。営業してる中で、自分が知らなかったこと、面白い分野をどんどん拡げていきたいと思うわけです。そこには知的好奇心を強く刺激されるプロセスがある。
その意味ではこのエニアグラム的なアプローチでの心理分析は大まかには当たってるようにも思う。つまり、飽きっぽい。

そもそも、占いではないので、当たるも当たらないもないんだけども。

そう考えた時に自分のこれからを俯瞰して見ようとした時に、この方向は大丈夫なのか?という疑問はあるわけで。いろんな事情で電機業界がどん詰まりになってしまったのは間違いないし、材料業界への余波も大きいだろう。数年先の戦略を落ち着いて立ててる人がどうやら居なさそうなのも不安は不安。これから伸びる業界や組織でこそ、人は成長していくものだと思うし、それは間違いない。言ってはなんだけど、仕事のキャパシティは前職よりも現職の方が明らかに拡大した。前職を続けてたら今ほどには達していなかったぢろう。組織に合わせて人は少し背伸びし続けると実際に(能力的に)背が伸びる。

自分の志向と自分の仕事の整合性とを落ち着いて見てみると必ずしも最適解は一つではないのだな、と考え込んでしまうわけで。
私は勤労/納税/参政することで既に社会に十分参画/貢献してると思ってたし、雪かきではないけど、地味で目立たない仕事も世の中には必要だと思って来たけど…。

あれこれ考えてると案外と今の自分の方向性を確定づけたのは、前職を辞める時だったのだなあ、と気付く。大学を卒業して前職に入った時にはろくに自分の力の活かし方など、考えていなかった。なんとなく、歳をとり、結婚し、子供ができて、家庭を持ち、一般的な幸せを享受出来たらそれでいいと思ってた。いや、つい最近まで自分はそうなるものだ、とばかり思っていた。

昨日の会話の中で、「能力や資力があれば、それは社会のために最大限有効に活用されるべきだ、」という話を聞いて、それ、自分もそう思ってた!と感じたわけです。

私の友人に一人、中学時代から類稀な特異性を発揮してた友達がいた。社会性、コミュニケーション能力が高く、自己表現の要諦をよく理解してた彼に私はいつも感心してたし、刺激を受けてきた。私は彼がどこまでも深く社会に関わっていける器のある人間であることをわかっていたけど、彼は普通の企業に就職して地元にいる。それが悪いことだとは思わないし、地元への彼の貢献も計り知れないだろう。皆が皆、東京に出てく必要はない。だけど、自分よりも遥かに能力の高い人間が、その能力を効果的に最大限、発揮できない(かもしれない)小さな組織にいるのは至極残念だとも感じるわけです。私は意地悪くも彼にたまにそういう話をすると、彼は「まあ、しゃあないわなあ。」と言う。

私の現職の先輩で一人、お仕事を辞めて公務員になった人がいる。それはそれで周りの人たちの引き留めと驚きは凄まじかったわけです。会社の中心的役割を担っていた人だったからこその衝撃だったわけですが、その人は社会への貢献度合いを電子材料の販売からは見出せなかったのだ、と。確かに公務員であれば、それはわかりやすい。彼は今、うちにいた時以上に活き活きと仕事をしている。

誰もが自分の能力が何かに貢献しうるのか、貢献出来ているのか、正直わからない。可能性は無限大なのだ。世の中には自分よりも優秀な人間がごまんといることも重々承知してる。でも、なんとなくだけど、変な方向に腹括って人生を達観してしまうくらいなら、自分のことをもう少し精緻に分析した上で敢えて、盲信的に無限大のposibilityを信じてみてもいいのかもしれない。

で、何がやりたいの?

答えはそんなに簡単には出ないみたい。