車を手放しました。

ボーイングB787のエンジンは唸りをあげて、高松空港の滑走路から飛び立った。雨雲を突き抜けると、ちょうど夕暮れ時の分厚い黒い雲と雲の間に飛行機は顔を出した。雲の切れ間の水平線には夕陽の沈んだ直後のほのかな明るさが見え、夜の闇の紺碧から徐々にグラデーションが黄色からかすかな陽光に移り変わるその様子は見応えがあり、ベルト着用サインが消えたのを確認して、iPhoneのカメラを起動して写真を無我夢中で撮る。
私が空の旅で窓側を選ぶのはまさにこの瞬間のためと言ってもいい。トイレには立ちづらいが、国内線なら大したフライト時間ではないから問題にはならない。

程なくして機体は機首を北から東に旋回させたためにその風景は見えなくなってしまった。シャッターチャンスはほんのわずかしか無かったということになる。
写真の出来具合を見ながら、明日からの上海出張のことをぼんやりと考えた。明日は朝から起きて洗濯して、干しておいてから旅支度して成田エクスプレスに乗って成田空港からJAL便で上海へ飛び立つ。上海ではスタッフが出迎えてくれて一緒に一路蘇州まで向かう。蘇州のホテルにチェックインしてからたぶん晩御飯食べて月曜日に備えることになるだろう。

今回は自分の7年間乗っていた車を手放すための旅だった。
東名から第二東名伊勢湾岸道を抜けて新名神から中国道、瀬戸大橋を渡る750kmの旅は実はもう何度も経験していて慣れたものだった。眠眠打破というなかなかにどぎついカフェインのかたまりを飲んで、ブラックブラックを噛みながら、3時間睡眠で実家に辿り着いた。
親父と伯父夫婦は朝から小雨の降る中、ブドウの粒落としをやっていた。実家ではブドウを作っていて、今の季節は小さな実を少しずつ落として、一つ一つの実に栄養を行き渡らせる。ジベレリンという薬を付けたり、こまめに水をあげたり、讃岐で作るブドウは結構手間がかかる。親父たちと昼ごはんを食べた後、ひたすら仮眠をとった。
帰りは空港まで送ってもらいながら、仕事の話や妹の話を聞いていた。親父はまだまだ話し足りないようだった。私は結構ダラダラと話すのが好きだが、それは確実にこの人に似たのだと思う。そして、その事実は私を不快にはしない。

ボーイングB787の運航について、これまでの経緯や運航再開の話を機長がし始めたが、梅雨の長雨は東京では今日はひと段落しているらしく、傘が無くても問題ないようだった。

自動車は2006年から乗っていた。だから正確にはちょうど7年間、乗っていたことになる。7年前、私は社会人になりたてで名古屋に赴任して、社会人生活を模索し始めた頃だった。そんな私に父が車を貸してくれて乗ってきたわけだが、関東に引っ越してからは、いや、正確には1人になってからはあまり車には乗らなくなっていた。車の運転は好きだし、持ったことのある人にはわかるだろうが、オーナーカーの気安さと言うのはあるにはあるのだが、乗る頻度をと維持費を考えたらどう考えても年間30万円以上かかる維持費に対してはレンタカーで事足りてしまうという結論に至ったため、父に返すことにしたのだった。なかなか言い出せなかったのだが、意を決して、父にその旨を伝えたところ了承してもらえたのだった。

父は恐らく私が香川県に帰って来なくなるのではないか、と言うことを危惧しているのは帰宅した際に少し妹が言及していた。散々過去日記には私の実家の愚痴は書いてきたので、詳しくは割愛するが、実際、ホテルに泊まった方が快適、くらいのもので、実家にそもそもあまり愛着というものはない。友人にも、「お前は独立心、自立心が強いからなあ」と何度か言われたことがある。

7年間乗ってきた車を手放すのは正直寂しい気持ちもある。色んなところにその車で行った。思い出が詰まった愛車と読んで差し支えない。そして、この車を手放し、引っ越してしまえば、そんな過去とある種の完全な決別が完了すると言ってもいいのかもしれない。元からなんの感慨もないつもりだったが、それでも、周りからは引きずっているのだと思われるよ、と忠告を受けてきたのも事実なわけで、そうした禊をやっとのことで終えられる、ということなのかもしれない。あれこれと言い訳するのはやめにして、身軽になって自分の人生をきちんと考えないといけない歳なのだと思う。

そうそう、ある人と長電話する機会があり、色んな話をしてる中で出たフレーズが至極気に入ったので、書き留めておきたい。
「みんな、HouseよりHomeが欲しいんだよね」、と言う話だった。その感情には強く同意出来る気がした。みんな、心安らげる場所が欲しいのだな、と。

「愛されるばかりが脳じゃないだろう?さあ、見つけるんだ、僕らのHOME 」

そう、そんな感じ。

そろそろ機体は静岡を越えて羽田に侵入し始めるようだ。