【書評】このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

 最近、書評を読んで面白そうだと思い、下記の本を読んでみたので感想とか感じた事を書いておきたい。 

diamond.jp

 この本はページ数も多くなく、ストーリー仕立てで読みやすい本だった。

また、最近の転職市場を理解し、概観する上でも結構タメになった。大枠は自分が過去に思っていた転職に対する姿勢と同じところで同意する部分も多かったが、時代の変遷からか、考え方が異なるところもあった。

 

 時代が変わったなあ、だとか、ドキっとしたのは下記の点。

・「有形の営業よりも無形の営業の方が難易度が高く、それでいて営業としてはスキルアップになる」

・「20代は専門性、30代は経験、40代は人脈」

・「専門性は誰でも学べば獲得可能であり、歳をとればとるほど差別化しづらくなる」

・「いくら技術資産や人的資産が高くても、そもそもの産業を間違ったら、マーケットバリューは絶対に高くならない」「大事なことは伸びている業界/マーケットで働くこと」

 

 正直、私自身が別に今、道に悩んでいるとか、転職したいとか思っているわけではないのだけど、(こういう枕詞を書かなければいけないのもある意味で面倒だが誰が読んでいるかわからないので・・・)誰にでもこうした岐路は訪れる。また、転職率も10年前と比べてもかなり上がってきているのだと理解した。

 

 本書に記載されていた「転職は多くの人にとっては人生で初めての意味のある意思決定」というのはまさにその通りだと共感した。何かを捨てなくては何も得るものはない。

 こういう本を読むと、ついつい自分語りをしてしまいたくなるのだが、今回は10年前の自分の転職時の経緯や気持ちをふと、思い出したので書いておきたい。(似た記事はあるのだが、当時は周りを慮り、そこまで転職に至る気持ちの推移や退職を伝えた後の流れは書いていなかった。)

 

■1社目に就職 

 2006年に私が前職に就職したとき、それは父親が勤めている東証一部上場企業で田舎が本社の会社ではあり、実際面接や試験もあったが、コネ入社に近かった。

最終面接では経営陣から

「君のお父さんはうちの会社についてどう思っている?」と聞かれた時は椅子からずっこけそうになったし、

最初に会社説明会に行った時も面接官と父親がとても仲良しだったために

「Kiki君は別に説明会に来なくてもお父さんに聞けば全部教えてくれたのに。僕が今日説明する資料は君のお父さんが作ったんだよ?」と言われたくらいだった。

 

■名古屋支店配属

 私はあまり何も考えずに「安定しているからBtoBの営業がやりたい」、という漠然な志望動機でいくつかの地元企業を受けて入社したのだが、結果的には父のコネ枠だったからか、他の同期が軒並み半年の本社研修があるのに、私だけいきなり本社での研修もほとんどなく、名古屋支店に配属になった。

 父は幹部というわけではなかったけど、会社に25年近く勤めていたわけで、上層部にも知己の多い「話の長ーい」ことで有名な名物課長だった。父は名古屋支店に在席していたこともあり、支店配属後、会社の先輩方からもよく父について話を聞いた。

 典型的な新卒入社の社員らしく、配属先でもすぐには私がやるべきことがなかったようで、最初の半年間は営業内勤として内勤女子のお姉様方と一緒に受注入力作業や工場や顧客との納期調整や電話番を担当していた。

 配属先でも私のことをどう扱うべきか悩みもあったようで、最初についた先輩や上司たちはあれこれと見積書作成や原価計算、ISO、CSRなどを教えてくれたり、先輩に同行させてもらたりしていた。正直、当時MixiやBlogの日記やメモにはしなかったし、言葉にするのも怖かったから口にもしなかったし、誰かに言われたわけでも無かったが、支店にとって、瞬間的には私はいらない子」「必要無かった子」「お荷物」だったんだと思う。いや、会社にとって新卒社員って、最初の1年くらいはみんなコストでしかない、とは思うのだけどもそれでも自分でもさすがにうすうす気が付くくらいの状況だった。

 入社時、会社では業績が優れず、社員の賞与が削られることが続いていた。1年目の冬のボーナスが2年目よりも良いくらい、経営状況が当時よろしくなかった。次々に取引先の倒産・会社整理が続いており、また、取引先である問屋などとの取引を与信から見直したりする作業も続いていた。与信管理や手形取引についてかなり詳しく会社から営業社員にレクチャーがあったのもこの頃だ。実はこの頃の教育内容はよく覚えていて、とても勉強になった。

 ただ、配属先では飲み会などで先輩方に

「どうして、Kikiくんはうちに入っちゃったのよー」というネガティブな話を言われることが多かった。(普通、新人にこの手の話をするのはご法度だと思うんだけどね・・・。)

 支店には何とも言えない「打ち破れない閉塞感」があり、新しい案件や明るい話が中々無かった。なんとか新規案件を生み出さないといけないけど、それをどうすれば生み出せるか?問屋営業をベースに頑張ってきた人たちが多く、名古屋という好立地にあったにも関わらず、自動車産業にもなかなか商材的に食い込めていなかった。

 

■子会社化に巻き込まれそうになる

 最初に配属になった部署は半分が子会社化されてしまい、給与体系も上限が設定されることになった。会社は売上の半分くらいを占める商材を成長性が無く、コモディティ商材だとして、子会社化してしまった。私も最初の予定ではその部署にいたせいで、この子会社化に巻き込まれる可能性が高かったのだが、当時の上司は私をそこから救ってくれて、子会社化には私を巻き込まなかった。この子会社化が更に不平不満を生み、支店の空気は悪くなる一方、、、に私には見えた。

 当時の名古屋支店は名古屋出身の人がほぼいなかったため、支店社員の殆どは社宅に住んでおり、会社と社宅は徒歩30秒の近さだった。つまり、通勤は全く無かったのでとても楽だった。社宅も自己負担はとても安く、電機水道代こみこみで1万円くらいしか払っていなかった。福利厚生という意味では相当恵まれた条件だった。更に夕方18時には仕事が終わって毎日定時で帰っていた。会社業績がイマイチだったので、残業規制も非常に厳しく、残業代は基本は出ない、とすら通告があったくらいだ。そして、社宅に住んでいる上司と毎週、支店の隣にある居酒屋に飲みにいく日々だった。そういう意味では居心地は結構良かったが、ぬるま湯感も半端無かった。

 

■営業配属後

  最終的に初の外勤営業として配属になった部署は子会社ではなく、親会社の別の主力部署になった。最初の営業活動では先輩について、一緒に自社にとっての新規市場である自動車用途に食い込んでいく活動を展開することになった。技術部と商材を検討し、マーケティングし、市場前提を作り、商社づてでなんとか然るべき会社の然るべき部署とコネクションを作り、新しい会社と口座を作り、サンプルを提出し、将来のプロジェクトの仕様書に材料を載せてもらう、今、私が働いている会社では「スペックイン」と呼んでいる作業だった。(が、前職では問屋回りで既存品を売り込むことが主な営業活動で、この「スペックイン」の経験をほとんどの人が積むことが出来なかった。)

 この活動を通じて、営業活動の本当の楽しさを知った。

・新しい市場を開拓すること

・お客さんとスペックや試験を通じて、商材を評価してもらい、プロジェクトを追いかけること

転職後にやり続けていることの全てのベースラインはこの最初の会社でのこの頃の経験の鮮烈さが元になっているように思う。

 こうした活動の楽しさを感じる一方で、支店の閉塞感はあまり変わらなかった。今だから書けるような話だが、営業活動の指標に顧客訪問件数をKPIとして支店長が設定し始めたが、顧客の開発部のエンジニアや調達部を相手にするスペックイン活動で「とりあえず、来ました!仕事ください!」みたいな問屋営業的な活動が評価されるわけもなく、がむしゃらな顧客訪問は出来なかった。

「末端のしている活動をマネジメントが理解出来ないと意味の無いKPIを設定してしまう」、ということを学んだ。これは本当にどこの会社でもありがちだと思う。営業活動で重要な指標は訪問件数だけでなく、その訪問の中身であり、実質的な営業活動がどれだけ出来ているかの方が、訪問回数をカウントするだけよりもはるかに重要となる。件数が重要ではないとは言わないが、ただ、お客さんを訪問するだけではお客にとっては迷惑でしかなく、付加価値は無い。提案を適宜適切なタイミングでしなければならないだろう。

 細かい案件の動き、顧客の動きを精緻に担当者以外が把握するには、議事録や打合せメモが非常に重要になるため、そうした文書の書き方もより上達していかなければならないし、管理職はそれを読み現場を想像し、把握し、理解するだけの経験やイメージ力が必要になるし、それが無いなら部下とまずは同行して様子を把握できるように努めるべきだろう。だが、実際にそういうアプローチで現場を把握しようとする管理職は意外と少ないのもまた現実だろう。

 支店の閉塞感から自分自身が不利益を被ることは無かったし、支店での人間関係はとてもうまくいっていたと思う。でも、自分自身も変わらなきゃと思ったし、たまに話を聞く大手企業に就職した大学同期らの話からはリーマン前の好景気をすごく感じることが多かった。ボーナスも良い、3桁万円くらいもらう、という話を聞いて、

「自分はこのままでいいのかな?」

「自分がやりたいことは本当にこの会社でできるのかな。。。」というもやもやが続いた。

 でも自分にはやりたいことが何なのかも具体的なイメージが出来なかった。営業活動は楽しかったが、先輩が牽引しているビジネスのお手伝いという色合いは強く、

「自分の力でどれくらい会社に貢献出来ているのか?」手ごたえもよくわからなかった。

 

■貿易

 そんなある時、本社から海外輸出部の部長級の人が社内研修と称して研修会で講師としてやってきた。内容はまさに海外輸出や貿易についての講習だったが、このときの講習で海外へ憧れが急激に高まった。その人は商社出身で海外出張してはいろんな海外の取引先と商談を決めてくるような役回りの人だった。

 前職の会社はあくまで内需主導型の会社で、国内販売比率は恐らく90%を超えていたと思う。貿易なんて言葉とはずいぶん遠い会社だったが、そうした仕事をしている人もいることを知り、「自分もそんな仕事をしてみたい!」と強く思った。そして、いろんな経済誌を読み漁る中で、自動車メーカーが北米ですごい成長しているということもまた学んでいた。日本人の営業が海外で活躍できる、ということも知った。

「貿易のことをもっと知りたい!」と思い、貿易実務検定を受けてみることにした。参考書を買い、検定を受け、C級は合格した。B級にも挑戦しよう、と思っている頃くらいに上司にもそうした部署にも行ってみたいという話をした。

しかし、上司からは

「Kiki君が興味があって努力しているのもわかったけど、そんなに簡単には異動は出来ない」とやんわりと言われてしまった。

その頃に、もやもやしている気持ちをいろんな大学時代の友人に相談する中で

「そんなにいつまでもうじうじ悩んでいるんだったら、転職活動してみたら?」と言われてようやく踏ん切りがついて、やってみることにした。

 

■転職活動とその後

 転職活動は過去の記事でも詳細を記載しているので、そこは割愛する。詳しくは下記。

 

その1では転職を決めてからエージェントに登録するまで。

kikidiary.hatenablog.com

その2は面接し始めて合格するまで。

kikidiary.hatenablog.com

 

結果的に2社に合格し、そのうちの1社に入社することに決めた。

 

■退職意向を伝える

 転職を決めた翌日、退職の意思を上司に伝えなければいけなかった。これが本当にきつかったし、つらかった。転職していった若い先輩が一人いただけになおさら言いづらいところもあった。心に決めてはいたものの、上司は私にいろんなチャンスをくれた人だったし、原価計算や営業活動を教えてくれた人で、子会社化の波からも救ってくれた。折に触れて展示会や東京への出張も認めてくれて、様々な形で私のことを応援してくれていた。実は遠く離れた今でも尊敬しているし、ああいうロジカルでチャーミングな人とまた仕事がしたいなあとすら思っている。もはや、遠く離れてお会いする機会も無いが、本当に感謝している。上司はなんとなくは察していたのか、渋い気持ちにはなりつつも、割とすんなりと受け入れてくれた気はする。

 そして、退職することを先輩にも話した。素直に話は聞いてくれたが、結局その日は飲み会になり、夜中まで栄まで出て飲んだりする中で、引き留められた。

 「どうしてもKikiくんが辞めるなら仕方ないけど・・・・・」と先輩はとても残念がっていた。先輩は私に、スペックイン活動や新規開拓の楽しさや面白さを教えてくれた人だった。

「エンジニアに物を売るためにはたとえ文系出身の営業でも技術力や市場の理解が絶対に必要」、ということを教えてくれたのもこのO先輩だ。サンノゼ転勤前にも一度連絡を取っているが、また日本に帰国したらお会いできたらと思っている。

 私は先輩や上司や支店のみんなとは本当に仲良くしていたので、その別れ自体はとてもとても悲しかった。支店の社員旅行の幹事まで当たっていて、旅行の計画も進めている最中でもあった。(社員旅行の幹事は退職前にしっかりとやり遂げたが・・・)

 ただ、「自分がしたいことを今、選ばなかったら、自分はずーっとずーっとこの先も後悔するだろう。」ということも また確信していた。

だから、どれだけ引き留めに遭っても決心は揺るがなかったし、名古屋を離れて東京に行くことを心に決めていた。なので、断固として引かず、でも、円満退職として最後まで自分の意思を貫き通すことにしていた。

 あと、実は転職活動で有給休暇をかなり使ってしまっていたので、4日しか有給休暇が無かった。仕事を辞めて引っ越し屋が来て名古屋の社宅の部屋を引き払って、神奈川の新居に引っ越して寝床を整えて、役所で手続きして、出社するまでを4日間でやり遂げなければいけなかった。当時は自動車も持っていたので、自動車を運転して、下見で1度しか行ったことが無かった場所に向かった。夜中に家の近所までは行けたけど、どこに家があるのかわからなくて、真夜中に見知らぬ場所で車中泊する羽目にもなった。明け方、ようやく目的地の新居の場所がわかって、なんとか車を駐車場に止めることができた。これはかなりハードだったし、10年経っても覚えている。

 転職意向を父に伝えたときは、父は意外にも反対しなかったし、自分で決めたならがんばれと言ってくれた。父はいつも私を後押しして応援してくれている。(しかし、後から聞くとやはりちょっとつらかったそうだ。)

 転職したらそれはそれでカルチャーショックの連続だった。

 いや、本当に嘘みたいな話だが、前職ではパワーポイントがそもそもPCにも入っていなくて、顧客に何か発表する機会が無く、ワードに事前にアジェンダを書いて印刷して持って行くくらいしかなかった。

 私は転職するまでパワポで資料作成したことが無く、まともなプレゼンテーションもやったことが無かった。面接でも聞かれなかったし、履歴書にも特にワードエクセルなどと記載した記憶は無かった。入社日にはいきなりパワーポイントで自己紹介資料を1週間以内に作れと言われて、「出来ません、パワポ触ったことありません!」とはとてもじゃないけど言えなくて慌てて帰宅中にパワーポイントの使い方という本を買って必死に勉強した。

 また、学んだ内容を毎日、日報としてワードで書いたメモを全部赤字で修正されたり、議事録の書き方がなっていないと先輩に怒られ毎日遅くまで残業する羽目になった。(そもそも、メモに求められるクオリティが段違いだった。。。このあたりはやはり勤める会社や産業によって、大きく違って来るところなのだろう)

 英語の電話がバンバンかかってきて電話番していても電話取るのが本当に怖くて取れなかったし、とんでもない量の業務量とメールの量で目がぐるぐる回りつつ、転職後4カ月でいきなり(念願ではあるが)中国へ海外出張する羽目になったり、その準備のために休日出勤したり、訳も分からず出張したせいで厳しい打合せになって上司に死ぬほど怒られたり。。。。リーマンショックが起こり、いきなり予算達成率が20%くらいになってびっくりしたりもした。

 悪戦苦闘する中で、製品やアプリケーションや市場や顧客を知り、英語を勉強し、プレゼンを学び、マーケティングを知り、顧客との打合せを通じてファシリテーションを学んだ。

 

そして、2014年。

2008年に転職してから6年でアメリカに駐在することになった。

その時のリアルな感情は下記記事にしたためていた。 ちょっとこの記事と重複するところもあるが。

kikidiary.hatenablog.com

 

 翻って、今この4年間、アメリカにいると、転職は日常茶飯事であり、同僚でもローカル人材は何人も辞めている。(何人も辞めているからといって職場が働きづらいとかそういう話ではなくて、実際に、転職することもキャリアアップを目指すこともアメリカでは普通。)役所に行っちゃった子もいれば、全く別の産業へ転職した子もいる。

 転職した後も、LinkedInを通じてコンタクトしてくる人もいるし、mailや電話してくる人も普通にいる。会社ではなく、人が仕事をする、ということの典型例なのだろうが。

 アメリカでは各自がLinkedInに必ずアカウントを持っており、日夜この自分のレジュメとも言えるプロフィールを充実させることを頑張っており、キラキラした内容を記載している人も多い。Ph.DMBAをアピールするのは当たり前だし、勤めてきた会社でどういう経験を積んで、どういう主体性・能力があるのかもまた記載されていたりもする。

 一時期、プロフィールを盛ることを揶揄する話がTwitter界隈ではHateする動きがあったが、そういう意味では欧米では転職に際してはプロフィールを盛ることには各自余念がない。盛って何が悪い、というくらいの勢いだ。勿論、転職する際にはReferenceを取られてしまう文化なので、そうした意味ではきちんと人間関係をキレイにして、盛りすぎを変に揶揄されないように退職することも求められていると言える。

 私もLinkedInには色々とアグレッシブなうたい文句を書いているが、盛りたくて書いているのではなく、欧米の文化ではむしろそれが普通ということなのだろう。

 

 私が今いる会社の日本サイドでも外資系へ転職していく人もいるし、日系メーカーから転職してくる人も結構いる。転職者が占める割合は結構、高い。新卒採用を強化しようとしているものの、元々、中途採用者がどんどん入ってくる職場とも言える。

 最近は50歳を超えて役職者を外れてしまった人たちが会社を辞めていくパターンも結構聞く。おおよそ、会社というものは幹部職の席は限られているため、昇り詰めた後のキャリアパスというのはなかなかに難しい。そこに待つのは実質的にはUp or Quitという世界だ。ただ、意外と50代の転職でも経験値さえ詰めていれば、うまくいくケースをよく聞く。たとえば、それはチームマネージャー/プロダクトマネージャーの経験だったり、業界での強いコネクションだったり、海外駐在経験+語学力だったりする。会社を辞めた後の方が活躍している人の話もよく聞く。

 

 自分がどういうキャリアを描いていくか、をよーく考えるためにはLinkedInや、こういう本を読む、という形で常に市場価値を考え続けることは非常に重要だろうと思う。